講談社サイエンティフィク 矢吹俊吉社長第4回

長年編集者として歩まれた矢吹さんは本社の命を受け、講談社サイエンティフィク社長となります。5年前から取り組む経営について、また少年の日に出会い今も続けている剣道についてうかがいました。矢吹俊吉社長インタビュー最終回です。


講談社サイエンティフィク
矢吹俊吉社長 講談社野間道場

講談社野間道場にて

ようやく今の会社の話にたどりつきました。

「講談社サイエンティフィクはグループ会社の中でもやや設立経緯が変わっています。
ノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士が、自然科学分野での日本の発信力のなさ、世界レベルでの認知度の低さを嘆いておられたのを受け、親交のあった講談社野間省一社長(当時)が1970年に設立しました。

だからほとんどメセナだったんですよ。社会貢献事業であって、採算取ろうという考えではなかった。初期には英語の専門書しか作っていなかったくらいです。
しかし10年経つとやはり少し変わってきて、まったく採算度外視というわけにもいかなくなり、日本語書籍を作るようになりました。

自然科学の専門書ですから、理系知らない私の仕事は純粋に経営、そして本社とのつなぎ役です。

5年前に来て、最大の課題は実売率の改善でした。
2003年にランダムハウス講談社(注1)に出向してアメリカの出版業界を見た経験が役立ちました。あちらはとてもドライだから。

部数の決定って、日本では販売部のデータと編集部の直感で行いますよね。アメリカでは重版の部数を決めるのは倉庫です。勘とかじゃなくて、純粋に出ていく数と返ってくる数で決める。日本では軽視されているけれど倉庫は重要なんですよ。
アメリカほどではありませんが、思い切って大胆に変えました。

それから大学の教科書に力を入れた。教科書は返品少ないからです。
あと電子書籍も。自然科学の専門書とは相性がいい。そしてこれも返品リスクがない。

幸いうまくいって、経営状態は大いに改善しました。本社から「やっぱり矢吹は編集やらせるよりお金の計算させた方がいい」と陰口が聞こえてくるくらいです(笑)」

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最後にプライベートな質問を。どんな少年でしたか?

「剣道少年です。中学から大学まで剣道しかしてませんでした。
茨城県土浦の生まれ育ちですが、剣道の強い先生がいるというだけの理由で水戸一高に片道2時間かけて通いました。当時県下最強の剣道部で、才能あるのが集まってる。私は才能ないですから、ついていくには5割増で練習するしかないんですよ。凡庸な人間がどう戦うべきか、そのとき学んだ気がします。

東大でももちろん剣道部。東大の剣道部ならオレが一番、と思ったら私ていどのレベルはゴロゴロいて、10年ぶりに団体で全国大会へ出場することになります。
当時の仲間とは還暦すぎた今もチャンバラやってますよ」

「講談社に入ったのも実は剣道が理由で、講談社には野間道場という由緒正しい剣道場があるんです。
就職のときもう一つ内定をもらっていた某広告代理店の人に「なぜうちに来ないんだ」と訊かれて、「御社には剣道場がありません」と答えました(笑)。

剣道して、酒飲んで、本読んで生きていきたい。そう願って講談社に入り、結果的にすべて満たされました。満足しています」(注2)

最後の最後、当インタビュ―恒例の質問です。好きなホテルを教えてください。

「旅館でよかったら、『峩々温泉』とお答えします。ただし、まだ行ったことがありません。雑誌屋生活が終わったとき、3日ほど山奥の温泉で一人酒でもやろうと思って、選んだのが『峩々温泉』という一軒宿でした。予約の電話を終えて、切ったとたんにかかってきた電話が母親からで、『父危篤、すぐ帰れ』。泣く泣くキャンセルしました。大酒飲みだった父親はその日、84歳の誕生日。病院の枕元で『今日は誕生日だろう』と言ったら、『そうだ。俺はこのザマだから、おまえ代わりにそのへんで一杯やってこい』と。その夜に息を引き取りました。いまの仕事が終わったら、今度こそ『峩々温泉』に行って、父親の代わりに一杯やろうと思ってます」

矢吹俊吉社長、お話ありがとうございました!

注1 講談社とランダムハウスの合弁会社。2010年提携解消。
注2 このインタビューのとき、矢吹社長は野間道場での練習帰りでした。


矢吹俊吉(やぶきしゅんきち)
1954年、茨城県土浦市生まれ。12歳のとき初めて竹刀を握り、中学、高校、大学と剣道三昧ですごす。1977年、講談社入社。校閲局を経て月刊「現代」編集部に異動。1992年~96年、同誌編集長。その後、現代新書、ノンフィクション書籍の出版部長、ランダムハウス講談社編集局長、講談社学芸局長を経て、2012年より現職。1994年、ルポライター小林篤さんの誘いにより将棋を指し始め、2003年、将棋のご縁で「ホテル暴風雨」オーナーと出会う。


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