エドガー・アラン・ポー【 黒猫 】(7)

【 誘惑 】

深酒すると荒れる、暴力をふるう、サディスティックになる、動物を虐待する……そういう人はあなたの周囲にいるだろうか。いない?……幸いである。私は酒をこよなく愛する男だし、たまには「昨夜はちっと飲みすぎたか?」と反省しなければならない程度の軽い頭痛に苦笑する朝もある。しかし酒を飲んで荒れたことはない。たぶんそれは「酒を飲んで荒れたい」という欲求が全くないからだ。

「黒猫」の語り手は何度も懺悔と後悔を繰り返しながら、しかし酒をやめない。酒を飲み始めると「このあたりで」と杯を置けない。結果、深酒となり、人格が崩壊し、暴力はさらにエスカレートしていく。酒が天邪鬼を招き、天邪鬼が「悪のためにのみ悪をなす」という人にあるまじき行動を即す。酒や天邪鬼が語り手を破滅に向かって邁進させているように見える。じつはそうではない。語り手自身が酒を引き寄せ、天邪鬼を招き入れているのだ。

悪魔は我々を誘惑しない。彼を誘惑するのは我々である。(ジョージ・エリオット)

【 豹変 】

目の前で機嫌よく飲んでいた仕事仲間がにわかに豹変し、驚いたことがある。当時の私はよほど驚いたとみえ、その翌日の日記にかなり克明にその場の状況、その男の豹変ぶりを記録している。こんな話は今まで書いたこともないしこれから先もまず書くことはないだろうから、この機会に書いておきたい。

私は27歳だった。かれこれ40年前のことだが、当時、私は広告制作会社のアートディレクターをしていた。酒は実質的に飲み放題だった。というのも、仲良くしていた大手広告代理店のAE(アカウント・エグゼクティブ/営業)が全て接待交際費ということで気前よく奢ってくれたからだ。もっとも彼としても、酒を奢るのにはそれなりの計算があったに違いない。自腹を切ることなく酒代はすべて会社が出してくれる上に、こうした「貸し」を周囲の仕事仲間に与えておくことで、イザという時になにかと便宜を図ってもらおうという魂胆があったのだろう。

さてその夜。私は上記AEとクライアント(広告主)筋である会社員2人の、合計4人で飲んでいた。この広告主2名をC1、C2としよう。C1(45歳前後)、C2(30歳前後)は上司・部下の関係だった。C2と私は仕事上のつきあいとはいえ普段から親しく接していたし、その夜、彼との飲み会は初めてということでもあり、楽しみにしていた。彼の上司であるC1は「顔を知っている程度」だった。ほとんど会話したこともなく、どういう人なのかよく知らなかった。とはいえ、なにしろ2人ともスポンサー筋である。酒の席とはいえ、AEと私は微妙に緊張していたことは確かだ。

飲み始めて1時間ほどは、なにくれとない雑談と笑いで我々の席の雰囲気はなごやかだった。結婚して半年程のC2には、5歳年上の姉さん女房がいた(私はその席で初めてそれを知った)。その奥さんがなにかにつけ、彼のファッションにあれこれ干渉することが、彼としては「最近の悩みの種」らしかった。彼が知らない間に「10年間着古してきた愛用Tシャツ」を勝手に捨ててしまったらしい。彼は激怒した。じつにごもっとも。我々は爆笑した。私も大いに笑ったが、笑いつつC1の表情をチラチラと見ていた。C1も笑っていたが、彼はほとんどこの席のくだらない会話に加わることがなかった。「まあそういう人なんだろうな」といった目で私は見ていた。

C1、C2が勤めていたのはオーディオメーカーだった。4人とも程よく酒が回ったところで、AEがこの会社の最近の売上について探りを入れ始めた。私は何度かそうした「AEの接待ぶり」を見ていたので「ははあ、探り始めたな」といった感じでC1、C2の反応を眺めていた。2人とも酒はそこそこ回っているらしく赤い顔だったが、C1の表情はサッと固くなった。私はハッと緊張するものが胸に走ったのだが、C1のすぐ隣に着席していたC2には、C1の表情の変化はわからなかったのだろう。

C2は「それがですね、よくないのですよ」といったフランクな感じで話を始めた。彼としては大いに飲み、大いに笑ったところで我々にグッと親密感を抱き、今まで以上の協力を要請したかったのだろう。まさにこれこそがAEの狙いでもあった。私もまた日常的な打ち合わせではまず聞けない内情の話が聞けるかもしれないと思い、身を乗り出した。

C2の意見は簡潔に言えばこうだった。これから先、オーディオメーカー存続の道は極めてきびしい。色々な方面に手を伸ばしていかないと、もうだめだろうというのだ。オーディオ機器だけにこだわって性能を競ってきた時代は、もう終わりつつある。それがC2の持論だった。特に目新しい持論という程のものでもなく、むしろ誰が聞いても「そうだろうな」と同意できる程度のものだった。

「それは違う!」
C1が突然大声を発した。同席の3人が驚いたことは言うまでもなく、周囲の飲み客も我々の席にチラッと視線を向けた程の大声だった。オーディオメーカーはあくまでもオーディオ機器の性能だけにこだわって生きていくべきだ。C1の持論はこうだった。これはこれでじつに潔い持論だと言える。しかしC1の場合は、その態度の豹変ぶり、その怒号の凄まじさに周囲は無言になってしまった。
「君たち広告代理店は、馬の鼻先にニンジンをぶら下げることが得意のようだがね」
C1は立ち上がった。
「馬だってニンジンが嫌になることがある」
C1はテーブルの脇に置いた鞄をつかむと、さっさと先に店を出てしまった。

話は以上である。このC1のたとえ話、一種の「捨て台詞」は、当時も今もちょっと謎めいた比喩として私の記憶に残っている。

【 再び黒猫 】

今回はたわいない思い出話がずいぶん長くなってしまった。お許しのほどを。
次回からまた「黒猫」の話に戻りたい。

語り手はプルートー(黒猫)を殺し、その幻影とも言うべき「漆喰(しっくい)の壁に浮かび上がった猫の姿」に怯える。
にもかかわらず(という表現しか思い浮かばない)、またもや黒猫に目をつけるのだ。これは犯罪心理でも似たような事例があるらしい。そのあたりも含めて語りたい。

【 つづく 】


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