【 R E R 】
さてRER。覚悟を決めて切符の窓口に向かう。用意はできている。
「RER・B線・パリ北駅まで・大人1枚・片道」
これだけの項目をフランス語で手帳に書いてある。これを窓口で見せたら、用件は伝わるはずだ。
窓口には5人ほど並んでいた。その後にすぐに並ぶことはしなかった。少し離れたところから、窓口でのやりとりを観察した。
中年の恰幅の良い紳士が窓口に進んだ。ニコッと軽い笑みを見せて「ボンジュール」と挨拶。
「なるほど。まずは「ボンジュール」なんだな」と思いつつ様子を見る。
すると窓口おばさまも、一瞬の笑顔を見せて「ボンジュール」。
なにしろ異国なんだから、こうしたじつにささやかなマナーもちゃんと身につけておいた方がいいだろう。この確認をした上で、列に並んだ。
さていよいよ私の番。この程度のことでも心臓がバクバクと高鳴っている。ようやくフランスに着いた途端に「もうイヤだ」とか「早く日本に帰りたい」と心中で叫んでいる声がある。窓口おばさまにさりげなく笑顔を見せ(実際はひきつった笑顔だったかもしれない)、「ボンジュー」と言い(ルはほとんど発音しない)、手帳を見せた。
彼女もまた(手慣れた感じの笑顔を見せて)「ボンジュー」と言い、チラッと手帳を見てうなずいた。
「ああよかった!」と安堵したのも束の間、たちまちペラペラペラッとしゃべり始めた。こうした瞬間が一番まいる。手帳を見せた段階で「フランス語ができない東洋人」とわかってくれても良さそうなものだ。咄嗟の判断で「パルドン」(すいません)とフランス語であやまり、次に手持ちのブロークン・イングリッシュを使った。
「アイ・キャント・スピーク・フレンチ」
幸いというか、彼女は今度も笑顔でうなづいた。それはよかったのだが、まず親指を立てて見せ、次に親指と人差し指を立てて見せた。「ところ変われば品変わる」ではないが、ところ変われば仕草も変わる。フランスでは「1」は人差し指を立てるのではない。そんなことをしたらすごく怪訝な顔をされるらしい。「1」は親指を立て、「2」は親指と人差し指を立てるのだ。
まあそんなわけで彼女は明らかに「1か2か?」と聞いているのだ。それはすぐに理解できたが、手帳にはすでに「大人1枚」と書いてあるはず。彼女がそれを見逃すはずはない。
「はて?……1か2?」と真剣に考えて「あっ!」と気がついた。これもまたガイドブックのどこかに書いてあったのだが、彼女は「1等か2等か?」と聞いているのだ。理解できた安堵と共に、彼女と同じように親指と人差し指を立てて「2」を示した。45フラン(¥900)だった。
後に調べてわかったことだが、空港からパリ北駅までは35分ほど。ここではそのたった半時間程のRERに、1等と2等がある。1等67フラン(¥1340)、2等45フラン(¥900)。なんと¥440の差があるのだ。日本の電車じゃ考えられない。

ホームに行くと、ホームの両側にRERが停車していた。始発駅なので比較的すいている。
座席に落ちついてガイドブックを確認していると、なんの前触れもなくドアがスルスルと閉まり、ガッタンと動き始めた。これにはちょっと驚いた。ここでは発車時にホイッスルも、ベルも、アナウンスも、なにもない。じつに徹底した「愛想なし発車」だ。時間が来たらドアが閉まり、発車する。ただそれだけだ。
しかしこの点について言えば「……いやいや日本の方が、むしろ異常かもしれん」と車内で思った。「まもなく到着の電車は……」という予告アナウンスから始まり、やれ途中の停車駅はどこそこだの、何両編成の電車だの、お急ぎの方はその次の急行がいいだの、白線の後ろまで下がれだの、とにかくもうやたらにうるさい。しかも電車が来たら来たで奇妙な電子音楽を鳴らし、ベルを鳴らし、ホイッスルを鳴らす。
「フランス人が見たらびっくりだよな」と思い、ニヤニヤした。「……むしろその驚きの方が正常だよな」
【 ワイン専門店 】
35分でパリ北駅到着。余裕があればメトロを乗り継いでホテル近くのサンポール駅まで行くのだが、もうクタクタでメトロに乗る意欲がない。
「……どうする? タクシーでホテルまで行くか?」
パリ市内はさほど広くはない。「端から端までタクシーで乗っても、通常は50フラン(¥1000)から100フラン(¥2000)」とガイドブックに書いてあった。その程度の金額でホテルの前まで行ってくれるのなら、出してもいい。
しかしここでもまたハードルがあった。私の財布には100フラン紙幣(言うなれば¥2000札)が10枚ほど。コインを持っていなかったのだ。ガイドブックによれば、これはやはりよろしくないようだ。というのも、客が旅行客と見るや、運ちゃんの中には降車時に「釣りがない」と言って客ともめるような運ちゃんもいるらしい。
「さてどうする?」
やはりこの近隣の店でなにか買って、コインをゲットしておいた方がいいだろう。
「まあ急いでタクシーに乗る必要もあるまい」
パリ北駅周辺をちょっとうろつくことにした。ショーウィンドウにワインボトルを使ったデコレーションをしている小綺麗なワイン専門店があった。価格を見ると20フラン(¥400)前後のワインがゴロゴロとある。さすがに安い。店内を見ると若い女性店員がひとり。客はいない。「うん、これはいけそうだ」とドアを開けた。
「ボンジュ〜」
先ほどの切符窓口と違って、挨拶にも笑顔にもずいぶん余裕が出てきたような気がする。なんとなく「異国演技に慣れてきた」とでも言おうか、妙な気分だ。
【 つづく 】

