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映画で犬が登場……と言えば大方の愛犬家は、いや愛犬家でなくとも人は「ほほえましい愛犬」あるいは「涙なくしては語れない忠犬」あたりを連想するのではないだろうか。ことほど左様に、人は太古の昔から犬には格別の待遇をもって接してきた。人の都合により、あるいは願望により品種改良を重ねてきた犬は、オオカミという共通のルーツを持ちながら現在は優に400種を越えるという。そんな動物は、他にはいない。
ということは人間制覇という戦略観点から少々シニックな考え方をすれば、「犬をまず支配下に置き、そこから人間制覇を狙う」という戦略も当然ながら起こりうる。ちょうどシートンがオオカミ王ロボの頭の良さにホトホト手を焼き、万策尽き、「そうだまずはロボの配下を狙ってやろう。配下を捕らえれば、心配のあまり心を乱したロボが罠にかかるかもしれない」という悪魔も微笑んで賛同するような惨い策を考えついたように。
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さて「遊星からの物体X」(1982/ジョン・カーペンター監督)。
この映画はB級の匂いが濃いのだが、とにかく設定が面白い。ただのB級ではない。映画の冒頭で雪原を疾走するシベリアンハスキー。「何事ならん」と見ていると、なんとヘリで追っかけてきたノルウェー人が無我夢中でそのハスキーを狙撃しようとする。狙撃どころか、たかがワンコ1頭の追跡にヘリから手榴弾さえ投げる。「なにがなんでもブッ殺す」という勢いだ。犬にいったいなんの罪が……とノルウェー人をいぶかしく思うのが観客の感覚であろう。しかしその犬の内部に全人類を破滅に追い込むような物(the thing)が巣食っているとすればどうだろうか。たちまち見方は変わり、ノルウェー人の必死さが理解できるというものである。その犬はただのワンコではない。まさしく魔犬なのだ。
ではその「全人類を破滅に追い込む物」とはなんだろうか。昨今の言葉では「パンデミック」というおぞましい言葉が脳裏を走った人も多いことだろう。パンデミックとは致死にいたる伝染病の世界的流行である。しかしこの映画はパンデミックの映画ではない。生命体の内部に入りこみ、細胞レベルで増殖してゆく未知の宇宙生命体……と言えばこの説明だけですでにB級映画の匂いが濃厚なのだが、そのような設定にしては、この映画には全編に妙にストイックな雰囲気がある。筆者はそこが気に入っている。
つまりB級SF映画にありがちな状況というのは「まあどうせこの映画は大して予算もないB級なんだし」みたいなあきらめというか、雑なつくりというか、ツメの甘さというか、全く余計な蛇足サービスというか、そのようなB級要因を随所に感じてしまうことが多い。その結果、登場人物たちはどれもこれもイマイチなにを考えているのかよく分からず、メインストーリーとはなんの関係もない流れでなりゆき恋愛のようなものが発生し、危機的状況に陥ると登場人物たちの間で待ってましたと言わんばかりの仲間割れが発生し、最初にパニックを起こした者がみっともない大騒ぎを起こして「ああコイツは死ぬんだな」とこちらが思った次の瞬間にあっさりと死んだりする。
しかし「遊星からの物体X」に登場するのは男だけである。また場所は南極越冬基地という孤絶された舞台である。どうでもいい恋愛シーンもなければ、さっさとパニックを起こして自爆する青二才もいない。これ見よがしの群衆パニックシーンもない。言わばUボート(潜水艦)内を右往左往する軍人たちのように閉鎖された隔絶空間で、未知の宇宙生物との壮絶な戦いが始まる。
冒頭で登場した追跡ノルウェー人たちは、自分たちのミスでヘリを爆発させた上に全員死亡という最悪状況となる。つまりその時点でノルウェー人たちのワンコ追跡意図は全くわからない。助かったワンコを基地内に連れ込んだアメリカ南極観測隊の男たちは、そのワンコがただの「逃げてきた犬」ではなく「自分たち全員を滅ぼす魔犬」だったという事実をイヤというほど知らされるハメになる。「なるほどなにがなんでも殺したかったわけだ」と悟った時にはすでに遅く、自分たちの仲間がひとりまたひとりと犠牲になってゆく……というじつに怖いSFホラーである。
多くは語らないが「犠牲のなり方」が、じつにすばらしくグロで奇怪で怖い。したがって男性諸氏は彼女と一緒に見るのはやめておいたほうがいい。この映画を観たあとで食事するなら、スパゲッティーミートソースはやめておいた方がいい。
舞台は最初から最後までずっと南極である。日本列島に大寒波到来の今こそ、絶好の好機、この映画はできればひとりで心ゆくまで味わい、心胆を大いに寒からしめていただきたい。
………………………………………( 魔犬談完結 )