魔の絵(14)

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こんな経験はないだろうか。
誰かと話をしている。あるいはテレビを見ている。あるいは電車に乗って吊革を握り、ぼんやりと車外の景色を眺めている。……そんな日常的で平凡なある瞬間、ザワッと総毛立つような悪寒が自分の体を駆け抜けてゆく。それはなんの予感も前触れもなく、外部のどこからかやって来る。それは意図的なのか偶発的なのか、よくわからない。ともかく私と接触し、私を通過し、次の瞬間にどこかへ去ってゆく。深く考えたところでどうにかなるものでもなし、追求しようにもなんの痕跡もない。

この時もまさにその状況に近かった。しかしこの時は「スケッチブックを持って外出」と聞いた瞬間に走った悪寒だった。不可解であり気味が悪かったが、追求するための材料はある。
「それはどんなスケッチブックでした?」
「黒いスケッチブックでした」
「そのスケッチブックを持って、どこに行くのでしょうね」
「……知りません」

知りません?……私は彼女を注視した。その返答に、微妙な不満を感じた。この件について関心がないのだろうか。引きこもり娘の外出。それは異例の行動であるはず。どうして注目しないのか。くどい質問にならないように気を使いながら、その時の状況を詳しく聞いた。
その説明によれば、長女は時々外出するらしい。
「時々、というのはどれぐらいです?」
「1週間に1回とか2回です」
「……なるほど」

「どこへ行くの?」とか「何時に帰るの?」といったごく普通の家庭の会話は、この母娘には全くなかった。以前はそんなことはなかったのだ。セーラー服以前の長女はごく普通にハキハキと答える子だったのだ。ところがセーラー服を着るようになってから次第に無口になり、部屋に引きこもるようになった。夫にも長女にも薬を飲ませるようになった頃から、長女は極端に無口になった。なにを聞いても無表情で無視するようになった。その無視の仕方も、夫にそっくりになってきた。

説明内容に興味はあったし、長女がおかれた家庭環境はある程度は知っておきたいと思っていた。しかしこの話は聞いていてつらかった。話をスケッチブックに戻そうと思った。
「スケッチブックですが……手さげとか、なにかそういう袋に入れて外出するのですか?」
そうではなく、そのまま手に持って外出するらしい。
「他に……なにか持ち物は?」
「さあ」と彼女は言った。「……知りません」

再び彼女を注視した。曖昧な返事にちょっとあきれていた。酒のせいだろうか。彼女の態度、返答の仕方は徐々に微妙に投げやりになっているようにも感じられた。夫にも長女にも、今の生活のなにもかもに愛想をつかしつつあるのだろうか。

私は手を伸ばした。彼女が手酌でつごうとしている冷酒のボトルを軽く押さえ、そのボトルを手にした。思ったとおりほとんど残っていなかった。私のボトルには半分ほど残っている。
空に近いボトルに残っていた冷酒は自分の杯に注いだ。私のボトルを手にして彼女の杯に注ぎながら、「もしや」と思うことを思いきって聞いてみた。
「毎晩、お酒を飲んでいるのですか?」
「ええ」
「おひとりで?」
「そうです」
「どれぐらい、飲んでいるのです?」

彼女はすぐに答えられず、私は「やはり」と思った。この人は毎晩、誰の制止もない状況で、相当に飲んでいるのかもしれない。この家の問題は、長女だけではなかったのだ。

…………………………………………  【 つづく 】

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