魔の絵(15)

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たまに「ドーナツでお茶していこう」と思うことがある。「ミスタードーナツ」というお店が世に出てくる前は、そんなことなど一度もなかった。ところが新進のコンビニのような勢いで街角の至るところでその看板を見るようになってから、「ドーナツでお茶」という新しい行動、ささやかな癒し休憩が生活に追加された。「ドーナツが好き」というよりも「なにか甘いものを体が欲しているのかも」と思うことがある。そう思うと同時に「ストレスがたまっているのかも」と自分の無意識層を疑ってみたりもするのだが、ともあれそんな時のドーナツをすごくおいしく感じることはまちがいない。何杯もお代わりができ、好きなだけ飲めるカフェオレもなかなかおいしい。

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その時代。……「墓場の北野家」と口の悪い友人たちから笑われた貸家に住んでいた時代。私は毎日のように都心に出て講義をし、都心から1時間ほど電車に揺られて地元の駅に帰って来た。「やれやれ帰って来た」気分で駅の改札を出て階段を降りると、すぐ左手に「ミスタードーナツ」の看板があった。改札を出た直後に必ず視界に入る看板というのは、やはり効果があるのだろう。いつ見ても店にはそこそこの客がレジに並んでいたり、客席に座っていた。

その日。……私は長時間の講義を終え、往復2時間の電車からようやく解放され、かなりの疲労感を意識しつつ改札を出た。階段を降りつつ腕時計を見ると、午後4時すぎ。「明日は講義がない。やれやれ」と思ったが、一杯やるには少々早い。「ミスタードーナツ」の看板が視界の隅に入った瞬間に「ちょっとドーナツでお茶していこう」と思った。

店に入る前に、ガラスごしに店内の客席を確認した。女子高生やオバサマたちに混じってまでドーナツを食べようとは思わない。幸い客席は空いており、女子高生もオバサマもいなかったが、なんとお坊さまが袈裟姿で客席に座っている。「ミスドに坊さま」という妙な組み合わせに思わず微笑気分になったが、よくよく見ると「墓場の北野家」大家のお坊さまだ。「……そう言えばあのお坊さまは甘いものが大好きで、じつは糖尿病だという話をどこかで耳にしたことがあるな」などと思いながら店に入った。

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私の場合、ミスドに入っても「どのドーナツにするか物色する」などということはまずない。オールドファッションしか口にしないからだ。この「ドーナツの原点」とでも言うべきドーナツを1個とカフェオレ。店に入る前からオーダーはこれに決まっている。この時も即座にこれをオーダーした。トレーを持って客席に向かった時にお坊さまと視線が合い、その時に初めて気がついたフリをした。「どうぞどうぞ」といった感じでお坊さまが自分の前の客席に手招きするので、遠慮なくそこに座った。

お坊さまはドーナツを何個食べたのか知らないが、彼の皿にはなにも残っていなかった。彼は私の皿をチラッと見て「さすがは絵の先生ですな。よくわかっていらっしゃる」と言った。オールドファッションだけが皿に乗っていることがどう「よくわかっていらっしゃる」のかよくわからなかったが、ともあれ褒めてくださっているようなので、私は笑った。

なにくれとない雑談をし、その雑談中に「これはまたとない機会だ。これを聞かない手はない」と思った話題を、私は切り出した。念のため周囲に客がいないことを確かめ、それでもこのような場所で名前を出すのはまずいと思い、「檀家さんの娘さんに絵を教える件ですが……」と言った。

「はて?」といった感じで、お坊さまにはその話がピンと来ないようだった。「そうか、お坊さまにとってはこの件はさほど気にするような件でもないのかな。なにしろ檀家さんは多いだろうし……」などと思いつつ、私は自分の声の大きさに注意しながら「檀家さんの御夫婦です。娘さんがふたりいらして……」と説明した。
「……ああ、はいはい」とお坊さまはようやくわかったようだった。「しかし娘さんは、おひとりですよ」

…………………………………………  【 つづく 】

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