【 魔のタマゴ 】( 短編魔談 4 )

【 戦慄のタマゴ 】

「魔のタマゴ」といえば、あなたはどんなタマゴを思い描くだろうか。毒タマゴだろうか。
「ヒキガエルのタマゴは猛毒」という話を(酒の席で)中国人の友人から聞いたことがある。ヒキガエルには皮膚にもタマゴにも猛毒が潜んでいるらしい。

中国では(日本における鶏肉のように)日常的にカエルが食卓にあがる地域がある。食用ガエルはさっぱりしていて、なかなかの美味で、その友人も好物らしい。しかして中国の国土は広く、民族も多様で、国民数も多い。なかには勘違いしてしまったか、あるいは好奇心で(こともあろうにヒキガエルを見て)「これも食ってみよう」と魔がさしてしまった人もいるようだ。野生のヒキガエルやそのタマゴを捕まえてきて食べた結果、病院に担ぎこまれる中国人は毎年何人かいて、毎年何人か死んでるらしい。まるで毒キノコやフグのような話だ。

しかし「魔のタマゴ」イメージは、やはりもっとこう、不気味さが漂っていなければならない。食べてどうこうという単刀直入的な話ではなく、そのタマゴを見た瞬間に戦慄するほどのタマゴでなければならない。

ちなみに「戦慄」という言葉は、いまの時代における新型コロナウィルスにぴったりの言葉だが、その「慄」(おそれおののく)は、なぜ心の右に栗(クリ)がくっついているのか。
これはクリのイガイガが枝にいっぱいくっついている状況を見て「うわっ」とおそれおののくからなんである。「なあんだイガイガかぁ」などと馬鹿にしてはいけない。私のような山村二輪ライダーにとっては、季節になるとクリのイガイガは本当に怖い。山間を平和に走っていると、県道にせりだした頭上の木からいきなりバラバラッと落ちて来たことがある。一瞬、なにが起こったのかわからず急停止したのだが、周囲に散らばったクリのイガイガを見て「なあんだイガイガかぁ」とは思わなかった。ヘルメットをかぶっていたからよかったようなものの「これがまともに顔面に当たっていたら」と思うとまさに戦慄ものである。

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【 ジュラシック・パーク 】

さて本題。
見た瞬間に戦慄のタマゴ。そんなタマゴがあるのか。あるのだ。
小説にそういうシーンがある。

「ジュラシック・パーク」

「えっ?……タマゴを見て戦慄?……そんなシーン、あったっけ?」
あなたはそう思ったかもしれない。確かに映画「ジュラシック・パーク」では、「タマゴ発見」シーンはさほどショッキングな場面ではなかった。グラント(古生物学者)はふたりの子供を連れてティラノサウルス・レックスから逃げ回っている時に、島内で恐竜のタマゴを発見する。しかし驚きはするものの「やはり繁殖している」と、あたかも予想していたかのような余裕の反応だ。さほどショッキングなシーンではなく、まして「戦慄」の雰囲気はまったくなかった。
しかし小説「ジュラシック・パーク」の愛読者としては、じつはこの点が非常に不満なのだ。このシーンをひとつのクライマックスとして、その後は全展開が一気に結末に向けて突っ走るような設定の(もっと硬派な)映画を見たいと(いまだに)思う。

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さてその原作。
小説「ジュラシック・パーク」(1990)はなかなかの長編だ。私の愛蔵版はハードカバーで上下巻ある。筆者マイケル・クライトンは、ハーバードで医学博士号習得の秀才で、身長が2mを越える大男だが、惜しくも2008年、喉頭癌で急死した。66歳。
スピルバーグ監督の映画「ジュラシック・パーク」(1993)がいかにスーパーヒットしたか。それはもう御存知のとおりである。

長編小説が映画になった場合、しかもそれが「上映時間1時間半程度」にこだわるハリウッド映画になった場合、その物語のいったい何%ほどを映画で語ることができるのだろう。もちろんそれは監督の手腕によるのだろうが、半分の50%程度だろうか。いやいやマイケル・クライトンは「10%から20%」と言っている。なんと10のエピソードが内包されているならば、映画ではそのうちの1つか2つだというのだ。
こうなるともう、タイトルは同じでも全く別物と言うほかない。マイケル・クライトンは「まあ、スピルバーグ映画では、こんなもんでしょ」てな感じで、原作変更を許しちゃったのかもしれない。

じつは原作では「どうして恐竜を蘇らせることができたのか」というバイオテクノロジーの技術とその過程にかなり重点が置かれている。そうした説明の中で「恐竜を復活させ、島で放し飼いをしているジュラシック・パークのシステムは本当に大丈夫か。安全と言えるのか」といった独特の暗雲ムードが冒頭から漂っている。

パークのスタッフたちは「この島で放し飼いの恐竜は勝手に繁殖しない。なぜなら遺伝子操作で、恐竜たちは全部メスだからだ」という自信満々の管理説明だ。しかしグラントは複雑な反感をぬぐいきれない。またグラント同様にオブザーバーとして島に招致されたイアン・マルコム(数学者)はそうした理屈による「恐竜の個体数管理」に冷笑の態度だ。「彼ら(恐竜たち)を甘く見るな」と警告し、「あんたらのやってることは自然のレイプだ」と早くから破綻を予告する。

そうした反対意見が交差するなか、パークはいわば「かなり問題の多い見切り発進」といった形で見学コース実施となる。かくしてティラノサウルス・レックスは電流フェンスをやすやすと破壊。必死で逃げるグラントは追跡者である肉食恐竜の恐ろしさを誰よりもよく知っている。自分たちに勝ち目はまずないと思っている。そんな逃避行のさなかに、彼は恐竜のタマゴを見つけるのだ。スタッフたちが「絶対にありえない」と言っていたものが目の前にゴロゴロとある。彼にとってはまさに顔面蒼白。「戦慄のタマゴ」なのだ。

しかしその瞬間から、グラントは「なぜ恐竜たちはタマゴを生むことができたのか」という疑問解決に向かって邁進する。興味のある人はぜひ小説をじっくりと読んでいただきたい。この小説の中盤、タマゴを見つけて「これはマジでやばい!」といった感じでパークの恐竜管理がすでに破綻していることを察知したグラントは、俄然、むしろ前半よりも生き生きと動き始めたようにさえ感じる。

グラントの追求により、スタッフがついに白状する。じつは恐竜のDNAには欠損部分が多く、その「穴埋め」にカエルのDNAを使ったと。スタッフは「カエルは周囲のオスメス比率により、性転換するケースがある」という事実を知らなかったのだ。あるいはうすうす知ってはいても、その件に目をつぶってしまったのだ。

この謎解き、追われつつ恐竜繁殖の謎を探ろうとする古生物学者魂がこの小説の最大の魅力であろうと私は思っている。そして1993年、映画「ジュラシック・パーク」を観た。なんとディズニーランド・アトラクションみたいな「恐竜復活説明」に唖然としたのはまだ許せるとして、(初期のディズニーアニメのような、チープで、ドタバタで、いかにも低予算といった)DNAキャラクターが(なんと映画が始まって、さっさと)軽いノリの解説でいわく「恐竜のDNA部分の欠落部分は、カエルのDNAを持ってきて、つなぎましたぁ!」

私はスピルバーグ監督作品が好きだが、この時ばかりは「おいっ!」てな感じ。いや驚いたというか、あきれたというか。
「マイケル・クライトンはこの映画を観て怒った」という話は聞いてないが、かの王様(スティーブン・キング)が原作なら、頭から湯気を出す勢いで怒り爆発ものだろう。宮崎駿が原作なら、まずまちがいなく(このアニメシーンで)席を蹴って試写会中途退室にちがいない。

しかしそこはさすがにスピルバーグである。彼にかかれば原作など「まな板の上のコイ」みたいなものだろう。どのように料理すれば、この物語は一流の娯楽映画たりえるのか。そこのツボをじつによく知っている。かくして映画「ジュラシック・パーク」は、スピルバーグ監督映画最大のヒットとなった。

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追伸。
実際には琥珀(コハク)に閉じ込められた蚊の体内に恐竜の血が残っていたとしても、そのDNA情報は損傷が激しくクローン誕生はまず不可能という結論らしい。しかしまた一方では、シベリアの永久凍土から掘り起こされたマンモスのクローンは、この10年以内に見ることができるだろうという報道もある。そのようにして誕生した(誕生させられた)マンモスは、いったいどのような気分で人類を見るのだろうか。神のみぞ知る。

…………………………………… * 魔のタマゴ・完 *

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