【 愛欲魔談 】(8)痴人の愛/谷崎潤一郎

【 虫の登場 】

今回は谷崎潤一郎「痴人の愛」で、河合譲治(主人公)がどのような経過でナオミに失望し、人生計画の羅針盤が狂っていったかという話をしたい。

河合が直面する誤算の連鎖。これはまだまだ続く。
前回で「瓦解」という言葉を例えとして持ち出した。英語指導をめぐる河合とナオミの喧嘩が「ひび割れた屋根瓦」だとすれば、今回は「そこから侵入した雨水」が建物全体にじわじわとダメージを与え始める段階と言えようか。

さて前回は、
ナオミの英語学習能力が低い
→ 指導の際のイライラでついつい罵倒
→ ナオミの反抗
→ 謝罪を要求
→ ナオミの太々しい態度に失望
……といった展開だった。

この一件により、ふたりの愛の巣の屋根瓦にはかなり深刻な亀裂が入ってしまった。
今回はそこから侵入する雨水の話である。ナオミの美貌と自由奔放でわがままな性格に目をつけた虫(青年)の登場という新たな、そして河合にとってさらに深刻な事態となっていく。「失意」に追加して「嫉妬」というさらに厄介な感情が河合をじわじわと苦しめていく。至福のうちに入籍というひとつのゴールに到達し「これでナオミは完全に俺のもの」と達成感に浸っていた河合の自己満足がガラガラと崩れ始める。

発端は、河合が帰宅すると、玄関先でひとりの青年がナオミと話をしていた。というなにげないシーンから始まる。花壇の手入れをするナオミ。すぐ脇で立ち話をする青年。シーンは日常的だが、河合にとっては晴天の霹靂だ。彼は即座に猜疑心を抱く。あれは誰だ。どこで知り合ったんだ。なにを話してたんだ。

このあたり、いったん生まれた猜疑心は一気に拡大してゆくという人の心理を見事に表現している。大概の男性読者は河合が犯したそもそもの過ちなど忘れて棚の上に放り投げ、「ホラホラ虫が寄ってきた。やはりナオミはそういう女だ」といった河合共感目線でナオミを見始めるのではないだろうか。

一方のナオミは「虫の登場」あたりから「したたかな女」ぶりを発揮していく。誤算と失敗に打ちのめされ次第に衰退していく河合。成長するにつれて本来の魔性ぶりを発揮し始めるナオミ。次回は「虫」をめぐる話に進めたい。

【 失恋告白集会 】

以下は余談。
「友人の失恋談ほど愉快な話はない」といった話をなにかの小説で読んだことがある。女性の複雑な心理は私のような無神経男にはわからないが、大半の男は「そうだ。そのとおりだ」と(内心で)同意するのではないだろうか。

私はかつて大学の男子寮で暮らしていた時代がある。
「Aのヤツ、ふられたらしい。今夜、失恋告白するらしいぜ」と聞いた夜は、まるで満員御礼の小規模劇場のように八畳の「談話室」はむさくるしい男子寮生でいっぱいになったものだ。拍手と共にAが登場する。Aは(キャバレーで見かける光景のように)左右に寄り添った寮生に酒を勧められながら「出会い・経過・破局」と告白を始める。

もちろん集合した男たちの最大の関心事は「なぜ別れたのか」ではなく、「一線を越えたのか越えなかったのか」だ。河合的な表現をするならば「切っても切れない関係になったのかならなかったのか」だ。舌なめずりをするような表情で「その瞬間」の描写を期待する男たち。
自主的・独立的・治外法権的な男子寮規定により、この日の酒は男子寮自治会の親睦費(笑)から捻出されることになっている。

Aの告白により彼をふった女性(逆のケース、つまり男子寮生が女性をふったという話はついぞ一度も聞いたことがない)に対してはゴウゴウと非難の声が上がる。もちろん男子寮の世界では、寮生をふった女の方が圧倒的に悪い。昔からそう決まっているのだ。

かくしてAは好きなだけ酒を飲み、満面の笑みを浮かべた表情の口々からゴウゴウたる彼女の非難を聞き、百万の同情者を得たような気分で両腕を抱えられ、拍手と共に自室に引き上げていく。残った寮生たちは、いま聞いたばかりの新鮮な失恋談をサカナにして酒を続ける。なんたる天下一品の欺瞞会。

この男子寮は日本でトップクラスの(はずの)国立教育大学に属している。
「コイツら、みんな、末は教師だよな」と私は思いつつ周囲の笑みを眺めたものだ。現国(現代国語専攻)がいる。古典(古典専攻)がいる。倫社(倫理社会専攻)もいる。
「……日本の教育も終わりだな」

つづく


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