【 アメリカの魔 】
「銃撃魔談」とはまた物騒なタイトルを持ってきたものだな、と思われたかもしれない。日本では「銃など見たこともない」という人がほとんどなので、その点で平和な国だといえる。
友人画家の奥さん(61歳)はアメリカ人だったが、彼女が15歳の時に父親が(会社からの帰路、自宅前で)強盗に襲われ、拳銃で撃たれて即死。「もうこんな国は嫌だ」ということで、母親と一緒にアメリカを捨て、日本に住むようになった。
今でも「アメリカはハリウッド映画を楽しむように、外から見ているだけでいい。内側に住む国じゃない」と言っている。アメリカにとって真の「魔」は「銃」かもしれない。連日のように銃による殺人事件が発生していることは御存じのとおりだ。
さて今回、「銃撃魔談」を開始する意欲となったそもそもの「きっかけ」から語りたい。
私はいまだにLPをよく聞く。今までの人生で聞いてきた音楽。私の場合はポータブルラジオから始まり、やがて中学生時代には小遣いをためてEP、LPを買うようになり、その後はカセットテープ、オープンリール、CD、とメディアは時の流れと共にどんどん進化していった。
しかしやがて「音楽メディアの進化は、感動の度合いと比例するとは思えない」という個人的結論に至った。「CDが究極」という「一般常識的デマ」をうっかりと信じてしまい、LP保有全盛期の300枚を半分ほど処分してしまったことは、いまだに後悔している。それでも手元に残ったざっと150枚のLPを大事に聞いている。
つい先日も、無性にビートルズが聴きたくなった。LPでもCDでもビートルズはそれぞれ4〜5枚ほど持っているのだが、この数年間はLPで聴いている。
夜の10時頃、私はこの時間帯をバーボンタイムと呼んでこよなく愛しているのだが、好きな音楽を好きな音量で存分に聴ける環境というのは、山奥の特権と言っていいだろう。
私の場合「好きな音量」というのは、やたらにボリュームを上げることではない。1980年に購入したパイオニアのプリメインアンプを起動させ、3ウェイスピーカーから流れ出てくる程よい音量で好きな音楽をゆったりと聞く。「これをしたいためにこんな山奥に来たのかもしれない」と時々思うほどに、それは私にとって至福の時間だ。
さてLPでジョン・レノンの歌声を聞き、薄暗がりで銀色に輝くアンプをなにげなく眺めている時に、ふと「1980」という数字が頭をよぎった。
1980年。私がアンプを買い、年末にレノンが殺された年だった。
【 ライ麦 】
1980年12月8日(月)。22時50分。ジョン・レノン(40歳)はオノ・ヨーコと共にダコタ・ハウス(ニューヨークの高級集合住宅)に戻ってきた。彼は車から降りた直後に「レノンさんですか?」と呼びかけられ、同時に銃撃された。
拳銃を発砲したマーク・チャップマン(25歳)は5発を発射。4発をレノンに命中させた。レノンは「撃たれた!」と2回叫び、数歩進んで倒れた。
数分後に警官が現場に到着。レノンを見た警官は救急車を待つ余裕さえないと判断。レノンをパトカーの後部座席に乗せて、近くのルーズヴェルト病院に急行した。病院の医師はレノンに心臓マッサージと輸血を行った。しかしすでに全身の8割の血液を失っていたレノンは、失血性ショックにより死亡。23時頃だった。
チャップマンは現場から逃走しなかった。彼は警官が到着するまでそのあたりを歩き回ったり、『ライ麦畑でつかまえて』(小説)を読んだりしていた。
レノンを撃った直後に小説を読んでいた?
外国小説が好きな人の間では、通称「ライ麦」こと『ライ麦畑でつかまえて』(サリンジャー)。
このあまりにも有名な青春小説をあなたは読んだことがあるだろうか。
「ライ麦」に「レノンを殺せ」と書いてあるはずはない。チャップマンは「ライ麦」のどこに触発されて(あるいは勝手な解釈に誘導されて)レノンを襲撃するに至ったのか。次回はそのあたりをじっくりと検証したい。
【 つづく 】