【 カラシニコフ 】
「悪魔の銃」と呼ばれている銃がある。
その銃は人類史上もっとも大量に製造され、様々な戦場でその威力を大いに発揮して大量に人を殺した。戦場以外でも、アフリカの内戦や無差別テロで使われてきた。まさに悪魔絶賛の銃だ。どこの国で生まれた銃だと思います?
日常的に銃とは縁がない日本だと「そういうのはアメリカなんじゃないの?」と答える人が多いに違いない。
答えは「NO」である。80年前、ソ連で生まれた銃なのだ。
その名は「カラシニコフ」。
設計者はミハイル・カラシニコフ(1919 – 2013)。ロシア人である。
そんなわけで世界中の多くの軍人は「カラシニコフ」と聞くと、人名以前に即座にアサルトライフルを連想するに違いない。
アサルトライフルとはなにか。日本では突撃銃と呼ばれている。なかなか勇ましい名前だが、実際は「勇ましい」などと呑気なことを言ってる場合ではない。最前線で兵士が使う自動小銃のことである。この銃は「単射」と「連射」を切り替えることができる。つまり「バン、バン、バン」と1発ずつ撃つこともできるし、「ババババッ」と連続して撃つこともできる。
現在の軍隊では、ほとんどの国でこのアサルトライフルがメインの銃となっている。カラシニコフは「数あるアサルトライフル」の中で君臨している「追随を許さない銃」なのだ。その名声ゆえに、人類史上もっとも大量に製造された銃だと言われている。推定1億丁。しかも安価。1丁10ドルで取引されたこともあるという。「悪魔の銃」は「貧者の銃」とも言われてきたのだ。
こんな銃をソ連時代のロシア人が設計したのだ。当然ながらそれはアメリカの脅威となった。アメリカの軍関係者なら「カラシニコフ」と聞けばグッと眉間にシワを寄せ、カラシを口に突っこまれたような表情をするに違いない。ロシアとは真逆で、苦いイメージとして「カラシニコフ」は定着している。じつに様々な戦場で「このいまいましいロシアの銃にしてやられた」という銃なのだ。
ベトナム戦争敗退の一因も、カラシニコフを相手に(故障多発の)アメリカのアサルトライフルが対抗できなかったことだと言われている。最前線で戦う兵士たちにとってこれほど怖い存在はないだろう。「仲間が故障した銃を修理している間に、敵のやつらはカラシニコフでガンガン撃ってきやがった」という証言が多発したのだ。アメリカの銃設計者にとってこれほど屈辱的な話はないだろう。
なぜそれほどの銃がソ連で設計され、良くも悪くも「銃ならアメリカ」と言わんばかりの国を大いに苦しめたのか。今回は設計者カラシニコフにスポットを当てて、彼がどのようにして「悪魔の銃」を生み出すに至ったのか、そのあたりを探ってみたい。
【 独ソ戦 】
1941年(昭和16年)といえば、日本では「第2次世界大戦勃発」という世界史的イメージだ。この年の12月に日本は真珠湾を攻撃している。
ソ連ではどうか。彼らにとって1941年とは「ナチス・ドイツ軍が(布告なく)侵攻してきた」年というイメージだろう。独ソ戦勃発である。ソ連ではこれを「大祖国戦争」と呼んでいる。周到に侵略準備を重ねてきたナチス軍の侵攻はまさに「破竹の勢い」だった。「向かうところ敵なし」だったのだ。
このときカラシニコフ21歳。農家の出身だった彼は、農具いじり(農具の改良)や機械いじりが大好きだった。独ソ戦勃発と共に、彼は戦車兵として最前線に送り出された。その最前線で、彼はナチス軍の最新兵器サブマシンガン(MP38)を初めてみた。「ガガガッ」という連続発射音と共に仲間は次々に倒れていった。
この当時、ソ連軍にも短機関銃(デグチャレフ短機関銃)はあった。しかしソ連製短機関銃は(1)構造が複雑(2)重い(3)高価(4)大量生産されていない。……といった理由で最前線で活躍する場はほとんどなかった。ナチス軍の敵ではなかったのだ。
カラシニコフはナチス軍の「ガガガッ」が耳にこびりついて離れず、ノイローゼのようになった。彼は「銃の良し悪しで戦争の勝敗は決まる」と思うようになった。
【 つづく 】