【 宮本緒形武蔵 】
今回は宮本武蔵(1584 ー 1645)を語りたい。
今回の魔談では映画「魔界転生」をとりあげている。18年前、私がレンタルビデオ店で「魔界転生」のパッケージを手にして「よし、今夜はこれを観よう」と決めた理由は、映画タイトルやストーリーに興味を持ったわけではなく、ジュリーのファンだったわけでもなかった。「宮本武蔵:緒形拳」というパッケージ裏の小さな文字に目を止めたのだ。緒形拳出演の映画はよく観ていたので、彼が演じる武蔵ならぜひ観たいという気分になったのだ。さらに言ってしまうと、当時の私はこの映画に「B級の匂いがする」といったイメージを抱いていた。なので緒形拳という男優名を見つけなかったら、おそらくビデオを借りることはなかっただろう。
さてその武蔵はどうだったのか。結論から言えば、残念ながら緒形も武蔵もいまひとつパッとしなかった。しかしこれはまあ、しかたがないと言えよう。というのも、この映画の武蔵は登場段階ですっかり老いて衰弱している。ついに孤独な老衰死か、という段になって天草四郎&ガラシャが誘惑に来るのだ。武蔵にはいまひとり対決してから死にたいという未練があり、「魔の誘い」に乗ってしまったというわけだ。
(吉川英治の「宮本武蔵」を主流とする)武蔵ファンにとっては、この武蔵の未練というか再生は失笑ものに違いない。この私にしても、巌流島でついに佐々木小次郎を倒したあたりというか、もっと溌剌とした時期の武蔵を演じる緒形を勝手にイメージしていたので、「魔界転生」の臨終武蔵にはがっかりした。その武蔵が倒されたあたりでコントローラーのSTOPボタンに手を伸ばしかけたのだが、「いやいやガラシャがどう活躍するのか、ちゃんと見届けねばならん」とかろうじて思いとどまった。
【 島原の乱に参戦していた武蔵 】
史実の武蔵はどんな晩年だったのか。
前述した「宮本武蔵」(吉川英治)が日本国民的に武蔵のイメージだろう。しかしこの武蔵談は武蔵が小次郎を倒した時点で筆を置いている。「えっ?」と思った読者もきったいただろう。「武蔵が息をひきとる最期まで語ってほしかった」と残念に思った読者もきっといたに違いない。なぜそうしなかったのか。これはもう筆者に聞くしかないが、その理由のひとつとしては「絶頂期を語って筆を置き、余韻を残す」ということだろう。その時点を絶頂期とするならば、後は衰退期でしかない。衰退期を語るのは、筆者としてはキツイ。
(吉川英治が書かなかった)高齢者武蔵のエピソードとして、こんな話がある。
武蔵が「巌流島の決闘」(1612)で小次郎を倒したのは28歳前後。その25年後、53歳の武蔵はなんと島原の乱(1637)に加わっていた。もちろん幕府側である。もし反乱側に加わっていたら、いかに武蔵といえども多勢に無勢、まちがいなく殺されていただろう。
武蔵はなぜそんな戦地にいたのか。その時期、彼の養子である伊織が小笠原藩(小倉)に仕官していた。彼はその関係で小笠原藩の陣地にいたのだ。
もう50を越えているのだからおとなしく陣地で愛弟子の活躍を見ておればいいものを、彼はなんと原城の石垣をよじ登ろうとした。しかしさすがの剣豪も上から降ってくる石にはかなわない。「拙者も石にあたり、すねたちかね申……」と書いている。石がすねに当り、立ち上がれないほどの大怪我をしたのだ。結果、担架で運ばれて戦線離脱ということになった。
【 穏やかな晩年 】
こんな話が思い出される。
父の友人(9年前に90歳で死去)で高校の美術教諭を務めるかたわら、個人的に武蔵の美術品を研究している人がいた。彼は私の実家に来ると、父を相手に武蔵を大いに語った。当時高校生だった私は、(同席すれば酒が飲めるので)よく傍にいて武蔵談を聞いたものだった。
あるとき彼は、武蔵の真筆とされる書状の現物をぜひ見たいと思った。あれこれ調べてみると偽物も山ほどあって呆れたらしいが、「これぞまちがいなく本物」というのが日本に2通あることがわかった。ひとつは吉川英治記念館。もうひとつは八代(やつしろ)市立博物館。
彼はその両方に足を運んだ。八代市立博物館は熊本県にある。地元の古文書から、博物館職員がたまたま見つけたものらしい。見つけた当初はそれとわからず、鑑定の結果、武蔵の真筆とわかって大騒ぎになった。
さてその内容。誰に送った書状なのか。松井興長(細川藩・筆頭家老/後の八代城主)に送っている。
なにを述べているのか。
(1)「有馬の陣」(島原の乱)で、興長が武蔵に使者を遣わしたことへの御礼。
(2)近々熊本に行くので、ぜひお目にかかりたいという打診。
この打診は、じつは武蔵の就職活動だったようだ。この時の武蔵は57歳。八代で落ち着きたいと願ったのだろう。
彼のその願いはかなえられた。「客分」ということで細川忠利(熊本藩主)から厚遇されたのだ。武蔵の晩年は幸福だった。「魔界転生」に登場の宮本緒形武蔵は洞窟の奥でひとり悶々としていたが、そんなことはなく、熊本城に隣接する屋敷で優雅に画や工芸などにいそしんだのだ。彼はその屋敷で、じつに穏やかに生涯を終えた。享年62歳。四郎とガラシャが誘惑に来ても、笑って相手にしなかっただろう。
【 つづく 】