【 夜明けの座禅 】
遠くの方からカーン、カーン、カーン……と鐘の音が近づいてきた。
普段の生活ではこの程度の音で目が覚めるはずはないのだが、睡眠が浅かった私はすぐに目を覚まして、上体を起こした。周囲を見回して驚いた。真っ暗だ。まだ夜明け前なのだろう。午前4時あたりだろうか。時刻を知ろうにも、部屋に時計はなかった。腕時計も禁止だった。
「ほんまになんにもない部屋やな」と思い、「ほんまに禁止だらけの山やな」と思った。一泊が経過した翌朝の第一印象だった。
音は廊下を小走りで渡っている僧侶が鐘をたたいているらしかった。仏壇の前に置かれている鐘のような澄んだ金属音で、どこかしらもの悲しい音色だった。
私はかずくんの布団を揺さぶった。
「なんや?」
彼は不機嫌な声を発し、次の瞬間に全てを察知したらしかった。飛び起きた。
✻ ✻ ✻
ここでは洗顔も歯磨きも手でやるらしかった。これにも驚いた。コップさえなかった。
「なんで歯ブラシはあかんの?」
「しらん」
目の前にあるのは、金属製の洗面器ひとつだけ。かずくんがやるのを見習って蛇口をひねり、洗面器に半分ほど水を入れた。両手で水をすくって口に入れ、指で歯をゴシゴシとこすった。「洗面器半分の水」だけで、洗顔も歯磨きもすませるのが作法らしい。ここでは水さえ大事に大事にあつかうのだ。
夏でも山の井戸水は凍りついているような冷たさだった。洗顔は最高に気持ちよかった。
洗顔を済ませると、私は鳥の声に誘われて外に出た。空を見上げた。東の空がようやくしらじらと明るくなり始め、私の周囲を取り巻く深い森の小鳥たちが、一斉にさえずり始めた。ものすごい大合唱だった。小鳥たちは太陽が出てくる瞬間を喜んでいるのだ。今日という一日が始まる喜びの大合唱なのだ。8歳の少年にもそれはよくわかった。私は感動した。
「ぼうっとしてるヒマはないで」
かずくんはポンと私の肩をたたいた。
ここは夜明けと共に坐禅をする世界だった。私にとっては3回目の坐禅であり、そのやり方を教えてもらう必要はもうなかった。
我々は大広間に行き、窓を開けて網戸にし、風をとり入れた。無言で座布団を持ってきた。
「もうやり方はわかってるんやし」とかずくんが提案した。「……好きなとこに座ってやろか?」
私はうなずいた。大賛成だった。
仏壇に向かってではなく、庭に向かって座ることにした。座布団を敷き、尻を乗せて足を組んだ。グッと意識して背筋を伸ばし、手を組んだ。目をうっすらと開き、下方に視線を落とし、庭の草花をぼうっと眺めた。呼吸を整え、意識して深い呼吸をし、呼吸のカウントを始めた。
雑念をふりはらう、というのが坐禅のひとつの目的と聞いていた。しかしさすがに8歳の少年にそれは無理な注文だった。第一、なんのためにわざわざ日常生活を止め、時間をかけてそんなことをするのか、その最も根本的な理由さえ私にはよくわからなかった。
延暦寺にいるものの、僧侶たちはなにも教えてくれなかった。私にとって唯一の身近な先生はかずくんだったが、彼は自分のことで精一杯だった。「人にものを教える」という行為は、ある程度の心の余裕、ある程度の意欲、そういうものがなければできることではない。彼にはそれがなかったとは言わないが、極度の緊張状態が(私が見ていてもそれは痛々しいほどに)彼を常に疲労させていた。一方の私は、なにが彼をそこまで緊張させるのか、それさえよくわからなかった。
✻ ✻ ✻
私は座禅を組みながら「考えない」ということについて考えていた。まさに雑念だが、その瞬間の私にとって、それはまさに最大の疑問だった。学校ではどの先生も「よく考えなさい」と言っていた。ところがここでは座禅という「奇妙な時間の過ごし方」を強要し、しかも「雑念をふりはらいなさい。考えないようにしなさい」という。「よく考えなさい」はすぐに理解できたが、「考えないようにしなさい」というのは全く理解できなかった。
学校ではうんざりするほど聞かされてきた「考えない → アホな大人になる」という当たり前の図式のどこがまちがっているというか。「山のお坊さま」は「町の大人」と全く違う生き方を目指しているらしい、ということはわかった。しかしその結果、「山のお坊さま」はどうなってしまうのか。最後はどんなふうになりたいのか。そのあたりはさっぱりわからなかった。
かすかな寝息が聞こえて来た。
「えっ?」と驚いてかずくんを見た。彼は仏壇に向かい、まるでお辞儀でもしているかのように、上体を傾けて居眠りしていた。
お坊さまが来たらどうする?
困ってしまったが、もう少しだけ、このまま寝かしておこうと思った。
【 つづく 】