【 マイガーデン 】
8歳の私がこよなく愛した野原は61年が経過した今、跡形もない。びっしりと隙間なく(こじんまりした大きさの)一戸建てが並んでいる。他人事ながらこんなに線路に近くては(電車が通過するたびに)さぞかし振動するだろうにと思うのだが、20世帯ほどの家屋が立ち並び、真新しいコンクリートの狭い私道ができた今では、面影などあるはずがない。
そのような状況を予想してはいたものの、数年前の盛夏に、私はその野原跡に立ったことがあった。じつは寺町京極に行って打ち合わせをする仕事があったのだが、(店長の希望で)午前10時に打ち合わせを始め、11時には終了した。そのまま京都駅に向かって岐阜の山奥に帰るつもりだったが、レンタサイクルの店を見かけて、ふと気が変わった。京都市街を自転車であちこち走り回った中学生・高校生時代をなつかしく思い出したのだ。レンタサイクルの自転車では中・高校生時代のドロップハンドル感覚とは全然違うだろうとは思ったが、それでも自転車特有の「心地よいスピード感」というものがある。
「よせよせ。やめておけ。失望するだけ」といった心中のささやきを聞き流しながら、私は自転車を走らせた。10人ほどの外国人観光客・自転車団体とすれ違った。みな(当然ながら)私をひとり旅の観光客だと思ったのだろう。一斉に手を振って私の後方に去っていった。
45分ほど自転車を走らせて少年時代の聖地に到着。現地の光景は前述したとおりで、寂しい思いのみが募った。しかし唯一、私の中にかろうじて残っていた8歳感覚をありありと呼び戻してくれたものがあった。それは風景ではなかった。振動と、音と、においだった。
寂寞とした思いを抱いてその場を去ろうとした時だった。
「カンカンカン」と警笛が聞こえてきた。私は思わず「おおっ」と声をあげて感動した。まさにこの音こそは、この場で少年が毎日のように聞いていた音だった。私は自転車で踏切に行った。自転車から降りて両手でそれを支え、目を閉じて電車の通過を待った。「カタンコトン」と電車が接近してくるレールの振動音。目の前を「ガーッ」と電車が通過した時の凄まじい音と振動。その直後に、まるで「残り香」のように、鼻の奥をツンとくすぐる鉄のにおい。電車が去り遮断機が上がってしまった後も、私は(周囲にだれもいないのをいいことに)しばらく目を閉じてそこに立っていた。泣いてしまいたい自分を我慢していた。
【 3少女 】
さて本題。
あるとき私が野原でイナゴを追いかけていると、ヤギジイの声がした。その方向を見ると、ヤギジイが窓から私に手を振っていた。「おいでおいで」の仕草をしている。菜園ではなくどうして窓からなんだろうと思ったが、警戒するような人ではないことは子ども心にも察知していた。
私は窓のところに行った。すると小屋のドアがきしんだ音をたてて開き、中から3人の少女たちが出てきた。ヤギジイが住む(かなり貧乏を感じさせる)集落の少女たちだった。姉妹なのか御近所さんなのか、そこまでは知らなかった。
この3少女はヤギジイ菜園の脇でよくママゴッコをしていた。ムシロのようなものを敷き、運動靴やサンダルをムシロ脇に並べていた。ムシロの上にちょこんと座り、なにかの真似をして遊んでいた。私はそのような遊びに興味はなかったし、3少女の方も、いつも1人で補虫網を振り回している私を見て(たぶん)仲間はずれにされた孤独な少年と見ていたのだろう。彼女たちと私は、お互いにその(遊んでいる)姿は見て知っていた。しかし話をしたことは一度もなかった。
突然に私の前に出てきた3少女を見て、私はちょっとびっくりした。遠くから彼女たちの姿を見たことは何度もあったが、対面したのは初めてだった。一番年上の少女は私と同じぐらいの年齢かと思われた。身長は私とほぼ同じで、髪は短く体型は細かった。細い目は切れ長で、いかにも利発そうな目だった。
「ソア」とヤギジイがその子を呼び、私にはわからない言葉でソアになにかを伝えた。当時の私にはそれが何語かということさえわからなかったが、ヤギジイの声は穏やかだった。ソアはうなずいた。
「ヤギジイがね、どうぞ上がってください、言うてんねん」
これは私にもわかった。一瞬、どうしようか迷ったが、好奇心の方が優った。私は補虫網をドアの脇に立て、虫籠をドア脇に置いた。ドアの前で靴を脱ぎ、中に入った。
【 つづく 】