【 終戦直後 】
私が(ソアの同時通訳つきで)ヤギジイの話を熱心に聞いていたのは8歳のときで、それは1964年のことだった。1964年と言えば東京オリンピック開催の年である。「もはや戦後ではない」と言われたほどに、日本経済が活況を呈していた時代だ。
「50歳のころにね、食べるもんがなくて死にかけたらしいねん」
「貧乏だったから?」
「戦争に負けて、日本全部が貧乏やった時代や」
「ふーん」
私のおぼろげな記憶を総動員してヤギジイのルックスを再現し、彼が何歳だったかを推測した。結論としては「70歳前後」だった。仮に彼が70歳だったとしよう。すると生まれたのは1894年ということになる。彼が何度も語った「日本が戦争に負けたときのドサクサ」は1945年の頃なので、彼は51歳。確かに年齢的には(アバウトながら)合致する。
終戦時、ヤギジイは大阪にいたらしい。大阪でなにをしていたのか知らないが、「京都は空襲にあってない」と聞いて、一族を率いて京都に来た。空襲にあっていない街ならなんとか生き延びる方策もあるだろうと希望を繋いだのだろう。
しかし当時の京都は「焼け野原」とはいかないまでも状況は大阪と似たり寄ったりで、生活はキツかった。彼の一族(10人ほどいたらしい)は手分けして仕事を探し、なんとか食い繋いでいたものの、栄養失調で5歳以下の幼児たちは次々に死んだ。3人も死んだという。なんとも痛ましい話だが、当時の日本では珍しくもない出来事だったのだろう。
そのような状況で、ヤギジイはヤクザと出会った。周囲の民衆が「着たきりスズメ」同様の服装で飢えを凌いでいる中、上等の服を着てトラックに乗っていた彼らを見て「こいつらは何者なんだろう」と興味を持ったらしい。闇市でひとりの太った男に目をつけて尾行し、彼らの事務所を探りあてた。(驚いたことに)ドアをたたいて「オレを使ってくれ」と頼んだらしい。
そこにいたヤクザも驚いただろうが、ヤギジイが朝鮮人と聞いて態度が変わった。そのヤクザ集団には何人か朝鮮人がいたのだ。当時、京都にいた朝鮮人には(日本が戦争に負けたという状況の中で)強い連帯感があったのかもしれない。ともあれヤギジイはその集団の一員となった。彼は喜んだものの、その事務所に飛びこんで数日後、あっけなく警察につかまった。
「大きなお屋敷のね、蔵の鍵を壊して中に入ったらしいの」
ソアはさもおかしそうに同時通訳した。
「そしたらすぐに警察が来てね、仲間がみんな逃げるまでヤギジイは逃げたらあかんて命令されてたの」
つまり強盗の見張り番であり「イザというときは逮捕の犠牲になれ」という役回りになろうか。結局、5人が蔵に押し入り、ヤギジイを含めて3人がつかまった。現場を指揮していた2人は車で逃走した。
「1年ほど刑務所にいて、恩赦で出てきたんやて」
「オンシャって、なに?」
「刑務所にいたときに、反省しておりこうさんにしてたんや。それで早目に出てよろしい、てことになったんや」
「ふーん」
皮肉なことに、刑務所に入ったおかげでヤギジイは3食にありつき、体力は回復した。なにが幸いするかわからないものである。
刑務所から出てきたヤギジイは二度とヤクザの事務所には行かなかった。逆に刑務所の守衛かなにかになりたかったらしく(驚いたことに)今度は何度も刑務所に行って採用を交渉したらしい。しかし(おそらく日本人ではないという理由で)その願いはかなわなかった。
「これでもう日本は終わり。しばらくしたらアメリカの一部になる。ヤギジイはそう思てたんやて」
しかし(我々にとって誠に幸いなことに)そうはならなかった。日本は分割されず、ヤギジイが驚くほどのスピードで経済は復興した。ヤギジイは一族を残し、単身で大阪に戻ったという。大阪の方が工事現場など職にありつけたらしい。
それから61年が経過。ヤギジイも、ソアも、彼ら一族もその後はどうなったのか、私は知らない。ソアはとても頭のいい娘だったし「日本人と結婚する」と言っていた。きっとその夢を果たし、今も日本のどこかで幸福に暮らしていると信じている。

追記。
中学生時代に教科書で白楽天(昔の中国の詩人)の絵を見た。即座に「ヤギジイだ!」と懐かしく連想した。久々で(数年ぶりで)ヤギジイの小屋があったあたりに行ってみたが、彼の家も集落も、跡形もなかった。
【 完 】

