【 魔談500 】モンマルトルの画家たち(1)

【 前口上 】

500回目の魔談を記念して、今回から「モンマルトルの画家たち」を開始したい。「魔談」にふさわしい話なのかどうかわからないが、画家たちの中にはかなりダークで病的な世界に生き、吸血鬼のように夜な夜なモンマルトルを徘徊し、ボッシュのようにグロテスクな世界を描いていた奇人変人もいたので、まあ、外れてはいないと思う。

それはかれこれ35年前の話で、当時34歳だった私は現地での日記・デッサン・写真、また帰国後の覚書などかなり詳細な記録を残している。またモンマルトルに数日間滞在してそこで暮らす画家たちの生活を間近で見ていた記憶は、35年が経過した今でもかなり強い印象として残っており、「画家として生きる」ことのスピリットを私にも分けてくれたように思う。感謝の念をこめて、私がそこで見たことや感じたことを語りたい。

【 パリ10日間・15万円 】

さて35年前。「ルーブルは一度、行っておかないと」といった理由でフランスに渡ったことがあった。じつはその時期の私は数年間、「ルーブルは一度、行っておかないと」となんとなく思い続けながら生活していた。しかしフリーデザイナーという肩書きの生活だったので、「有給をとる」とか「休暇をまとめてとる」とか、そうした「会社勤め恩恵」は全くなかった。

フリーというのは、仕事が重なってしまって忙しいときは、いわゆる「進行管理」にすごく神経をすり減らす。「仕事A」はいつまでに完了しなければならないか、「仕事B」は不明点がいくつかあり、その確認が最優先だ。…‥そのような一覧表を毎日のようにつくっては、ため息をついていた。
逆に仕事がなくヒマになってしまったときは、一気に不安が襲ってくる。このまま仕事が来ない場合はどうするか。貯金はいくらあるか。この機会に広告代理店や出版社に「売りこみ」をするべきではないか。そうした切羽詰まった気分にどうしてもなってしまう。「まあ、なんとかなるさ」といった楽観がある程度必要で、それがないとどんどん自分を追い詰めていくことになる。どっちにしても、つまり忙しくてもヒマになっても、フリーは心労が絶えない。

私と一緒に水道橋(東京)にあった広告代理店を辞し、「これからはフリーでやっていこう」と励ましあってきたデザイナーがいた。しかし彼はフリーになって1年で精神的にダウンし、体調を崩して入院した。奥さんから入院の連絡を受けて驚き、病院に見舞いに行ったときは、そのあまりのやつれように励ます言葉も失ってしまったほどだった。

私はもともと痩せた貧相な男なので、やつれたところで外観に大して変化はない。しかし彼の場合は「小太りでひょうきんな男」といったイメージだったので、久々で病室で対面したときは、正直に言って奥さんが病室の出入口で出迎えてくれなかったら、彼とはすぐにわからなかったかもしれない。彼はそれほどにやつれていた。
「いったいなにが、この男をここまで追い詰めたのか」といった暗澹たる気分で、私は彼のベッド脇に座った。しかし私は自分でこのような問いを発しておきながら、じつはわかっていたのだ。説明を受けるまでもなく、彼を追い詰めていたものはなんだったのか、すでにわかっていたのだ。

「会社に戻ろうと思う」と彼は言った。
「うん。その方がいい。君の実力ならすぐに戻れる」
私はそう言いながら、脇に立っていた奥さんをチラッと見た。彼女のお腹は大きくなり始めていた。

病院を出た私はあてもなく街をさまよった。すぐに駅に向かって帰宅する気分になれなかった。歩きながらじつに様々なことが頭をよぎったが、それらの雑多な考えは結局のところなんの結論にも至らない。それもまた最初からわかっていた。

街に夕闇が迫っていた。
「そろそろ帰るか。ちょっと飲んで帰ろうか」
そう思い始めた時、私はふと足を止めた。ある旅行代理店のチラシに目が止まった。
「パリ10日間・15万円」
そのチラシは目下のところその代理店の最大の「売り」らしく、ショーウィンドウには4枚も5枚も並べてベタベタと貼ってあった。キャッチの下品な特太ゴシック書体が嫌いだったが、それにしても安い。なんと往復の飛行機代とパリ10日間のホテル代が15万円でいいというのか。以前に(誰だったか忘れてしまったが)「パリに1週間いた。飛行機代も合わせて全部で20万円だった」と聞いたことがあった。

私は腕時計を見た。午後5時半。その代理店の営業時間は午後6時までだった。
ちょっと悩んだが、ドアを開けて中に入った。

【 つづく 】


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