【 301 】
ホテルの3階に行く前に、1階ロビーの棚を見せてもらった。ロビーにはL字型にチャコールグレーのソファーが配置され、その背後の壁は本棚と陳列棚になっていた。本棚には、絵本や観光ガイドが20冊ほど並んでいた。陳列棚には、陶器の小さな天使、金属製の小さなエッフェル塔、ドールハウスにあるような木製の小さなロッキングチェア、そうした細々した物が並んでいた。陶器の小さな凱正門を手にとって見た。底に小さなシールが貼ってあった。100F。なるほど¥2000。みな売り物なのだ。
ロビーの奥に電話ボックスのような一角があった。青い木製ドアにはアールデコ風の優雅な装飾が刻み込まれたガラスがはめ込まれている。そのドアの脇にスイッチがある。なんと電話ボックスではなく、エレベーターだ。
ボタンを押して待っていたら、スルスルと上から降りてきた。タクシーに乗るときもそうだったが、ここでは「自動ドア」なんてものは、大きなビル以外にはまずないと思った方がいいのだろう。
金色のドアノブを回してドアを開け、エレベーターに乗った。ドアを閉めて、「3」のスイッチを入れた。ガッタンと音がして10cmほど床が下がり、ついでゆるゆると上昇し始めた。頭上から「カリカリカリ……」と独特の金属音が響いてくる。たぶん歯車が噛み合う音なんだろう。なんとまあ古風なエレベーターだ。それにしても狭い。2人以上はまず無理だ。日本の力士だったら1人でもギュウギュウ詰めだろう。
✻ ✻ ✻
3階についた。客室は4部屋。「301」のドアノブに鍵を差し込んでガシャッと回した。ワンルームだったが、10畳ほどの小綺麗な部屋だった。ベッド脇にザックをドサッと降ろし、エアコンのスイッチを入れた。アンティークな雰囲気のライティングデスクがあり、小型冷蔵庫があった。浴室を見ると湯船はなく、シャワーのみだった。窓のところに行った。縦に長い窓は観音開きだった。外はとっぷりと暮れていた。ホテル前の道は2車線の狭い道だったが、日本の歩道よりはゆったりとした広さの歩道には大勢の人々が行き来していた。「この道なら、夜でもひとりで歩けそうだな」と思った。
ベッドに座り、なかば呆然とした気分で「ああやっとホテルの部屋にたどりついた」という気分を味わった。ふと空腹を感じたが、ロビーでいただいた赤ワインのホロ酔いで「すぐになにか食べたい」といった気分ではなかった。
「……それにしてもうまい赤だった」と先ほどの感動を思い出した。もう1杯飲みたいほどだった。ザックからワインを出した。パリ北駅近くのワイン店で買った赤ワインだ。ライティングデスクのテーブル台は開いており、テーブル上には普通のコップとワイングラスが2つずつ置いてあった。自分で買った赤ワインを軽く飲もうかとふと思ったが、なにしろ20フラン(¥400)なので味は期待できない。すぐに飲むのはやめて、カウンターで飲んだ赤ワインの余韻をもう少し楽しむことにした。
【 中 庭 】
「301」を出てドアノブに鍵をかけたとき、ふと「非常口はあるのか」と思った。念のため調べておいた方がいいだろう。廊下のつきあたりにドアがあり、金色に輝いた小さなプレートがドアの上に貼ってある。「たぶんあれがそうだな」と見当をつけてそこまで行ってみた。
ドアに鍵はかかっていなかった。開いてみると、そこにあったのはなんと金属製の螺旋階段だった。下を見ると、そこは小さな中庭だった。四方をベージュ色の石壁に囲まれたなんともかわいい中庭だ。金属製の円卓が2台。やはり金属製の椅子が3脚。今の季節じゃ、たぶん誰も使わないだろう。街灯のような形状の灯がひとつ。穏やかなオレンジ色の光で中庭を照らしていた。

「なるほどねえ」と感心した。この螺旋階段なら、中庭の美観を損ねることはない。場所もとらないし、ツタがからまったような優雅な金属装飾が施されているし、ところどころに植木鉢もぶら下がっている。季節が冬なので植木鉢はみな土だけだったが、春になったらさぞかし綺麗な螺旋階段になるのだろう。
エレベーターはやめて世紀末風螺旋階段で下に降りることにした。じつはそれ以後、私はエレベーターを使うことは二度となかった。上りも下りも螺旋階段を使った。エレベーターを嫌ったわけではなく、螺旋階段の方が気分がよかったからだ。
【 つづく 】

