【 魔のウィルス 】25

【 3 】

初めて見た少年とはいえ、「蝶を狙っている」という点では少年も私も全く同じだった。遠目だが、年齢も近いように思われた。もし同じ小学校の生徒だったら、我々は友達になっていたかもしれない。アゲハチョウの華麗な色彩について、クロアゲハの大人びた配色について、シジミチョウの不思議な斑紋について……言葉も表現力も貧しいものの、夢中で語りあえる仲間だったかもしれない。しかし我々は他人だった。運転手つきの黒い車を待たせて白い大きな捕虫網をそよがせた少年は、たった15分ほど畑の向こうで自分のしたいことをやったにすぎない。にもかかわらず、彼は大きな衝撃を私に与えた。

しばらくのあいだ、私は少年を乗せた黒い車が消え去った方向をじっと眺めていた。汗ばんだ手で握りしめている補虫網も、この原っぱを飛んでいる蝶も、この原っぱにこだわっている自分も、なにもかもが否定されたように感じ、途方にくれるような気分だった。
私は空想が好きな子だった。なにかがきっかけで空想のスイッチが入ってしまうともう、目の前の現実を忘れて次から次へと空想を展開させた。それは単に「好き」というよりも「やや病的」に近い性癖だったかもしれない。助手席の少年が私を見つけて車を停めさせた瞬間……私はその光景をありありと想像していた。

あ、あそこに補注網を持った子がいるよ、とめて、とめて。
なーんだ。シジミしかいないよ。全然ダメだこんなとこ。
もういいよ。こんなとこ。ほかに行こうよ。

もちろんこれは当時の私の勝手な想像にすぎない。実際はまったく違う理由で少年は去っていったのかもしれない。しかし7歳という年齢では、これ以外のバリエーションを想像することは無理だった。

この3行……実際は京都弁の稚拙な言葉であり、補注網は単に「あみ」としか書いておらず、2行目には判読不能の謎の(笑)一文字もある。なのでここに記したこの3行はいわば翻訳文のようなものだが、その日の私の日記には、このような意味の3行のみが、(他の日の文字に比べてやや荒い)殴り書きのような筆致で記されている。それ以外の説明や描写や感慨は一言もない。

この出来事からざっと53年が経過した60歳の頃、ある夏の日にふと思い立って幼い時代の日記を整理点検していた私は、7歳の日記に記されたこの3行に注目した。最初はなんのことかさっぱりわからなかった。「なにか物語を考えていたのかも」などと推測した。しかしそうではなかった。「そうではないかも」という淡い疑いが頭の中のどこかにあり、その数日後、ふと「謎の3行」の真意を思い出すことになった。

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【 4 】

見知らぬ少年の言葉や気持ちを勝手に想像して日記に書くような子である。そのときの私がいかにその少年にひきつけられ、彼の行動を食い入るように見ていたか、想像していただきたい。それはたった15分間の目撃だったが私にとっては衝撃的であり、なおかついくつかの謎を残す行動でもあった。その最大の謎は「虫籠を持っていなかった」ということだった。そのかわりに少年は三角形の金属ケースを「幼稚園がけ」していた。

「あれはなに?」と私は思った。不思議でならなかった。大抵の子であれば、家に走って帰って母親なり父親なりにうるさいほどまとわりつき、ありったけの言葉を駆使して目撃情報を説明し、「あれはなにか?」という疑問を一刻も早く解決しようとするだろう。

しかし私は違った。なぜ違ったのか。どのように違ったのか。その説明をし始めると話が脱線の上に脱線となり、途方もなく長くなってしまうので割愛するが、要するに当時の私は「自分の気持ちを両親に言わない子」だった。
私は自宅に戻ると、いつものように玄関に麦わら帽子と捕虫網を置き、母親に帰宅を告げた。いつものように虫籠を自分の部屋に運んだ。しかしこの日、虫籠は空っぽだった。私は机に向かい、日記帳を出した。思いつくままに3行の文字を刻んだ。その欄外に身長3cmほどの人間を描き、その人間に「幼稚園がけの三角ケース」を追加して描いた。しかしその直後に「日記帳は外に持ち出したくない」ということに気がつき、別のノートに同じものを描いた。学校のクラスメイトたちにその絵を見せようとしたのだ。

それからざっと53年が経過した。その日記帳を開いた私は「奇妙な3行」に注目したものの、少し離れた欄外に描かれた絵には気にも止めなかった。その小さな人間は鉛筆で一度描かれたものの、消しゴムでガシガシと中途半端に消されていた。一見して「ただのイタズラがき」としか思えなかった。しかし日記帳を閉じてコンピュータを起動し、通常の仕事に戻ったものの「なぜ消そうとしたのか」という疑問が残った。

その日は淡い疑問として頭の隅に残る程度だった。しかし数日後には「あの絵にはなにかがある。もう一度あのページを開いてみよう」という気持ちになっていた。私は再び日記帳を開け、ルーペを持ち出した。半ば消されていた絵を仔細に観察し、小さな人間の腰のあたりに描かれた小さな三角形を発見した。その瞬間に「謎の3行」は謎ではなく、少年時代のせつない記憶としてありありとよみがったのである。

……………………………………    【 つづく 】

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