〜今回はいつもと違ってほぼ文章の日記です〜
10月13日 金曜日
バイトのお使いで四ツ谷駅前のオフィスビル、コモレ四谷へ行くと、だだっ広いエントランスにストリートピアノが設置されていた。弾く順番待ちの行列ができていたが、観客はいない。平日の日中、ここではみんな仕事中なのだ。ストピはとても注目を浴びるイメージだったけれど、全然違う。ここなら私にも弾けるかも?と思い、バイトが終わってから寄ってみた。順番待ちは2人だけだった。いつも家で弾いているショパンのノクターン2番を弾いた。家じゃない場所で、自分のじゃないピアノで、家族以外の前で弾く。すべて新鮮でドキドキした。
私の次の順番の中年男性は、今まで義理程度の小さな拍手しかしていなかったが、私にはありったけの力を込めた大きな拍手をくれた。聞いてくれた人は一人だったけれど、ストピ初日、とても良い気持ちになれた。
10月16日 月曜日
今日もバイト後にコモレ四谷でピアノを弾いた。先日はピアノが設置されて二日目で、弾きたい人が常に数人並んでいたので、あれから三日も経ってさらに周知されて、大行列が出来ている?と思いきや、誰もいない。たまに、同じフロア内のATMコーナーに用のある人が通るだけ。弾く人も聞く人もいない。今日はショパンのワルツ9番だけ弾こうと思っていたが、弾き終わって順番待ちがいないかチラッと後ろを確認して、二曲目ショパンワルツ10番も弾いた。二曲とも家ではほとんど間違えないのに、簡単なところでミスタッチの連続。へぇ〜、誰もいなくてもこんなに間違えちゃうんだ!…と、自分発見。またチラッと後方確認して三曲目は間違えない自信のある曲、バッハのプレリュード。これは家では目をつぶって弾く練習をしている。四曲目はノクターン。先週も弾いたので落ち着いて弾けた。チラッとして五曲目、幻想即興曲で最後にしようと決めて弾き始めた。家でうまく弾けないところはやっぱり弾けない。難しいところを誤魔化しつつ弾き終わると、パチパチパチパチと拍手が聞こえた。
「良かった!とっても気持ちがこもっていて上手でした。私は昔いくらやっても上手くならなかったから、自分で弾くのはあきらめて、上手な人の演奏を聞くことにしたの。また弾いてくださいね。」
と、上品な白髪の女性に声をかけられた。その方の娘さんと思しき女性とお二人で、幻想即興曲の途中から聴いてくださっていたようだった。
誤魔化しだらけの演奏をこんなに褒めてもらえて気恥ずかしかったが、気持ちがこもっていたと言われたのは素直に受け取り嬉しかった。
吉ちゃん6歳の頃の絵
10月17日 火曜日
ふと、自分のピアノは客観的にどう聞こえるだろうと思い、録画して、夜、寝る前に聞いてみた。
あれ?機材が壊れてる?と思うほど、左手の音が大きい。
ユーチューバーピアニストの諸先生方が、ダメな例として挙げる典型的な弾き方だった。
たとえばショパンのノクターン2番、伴奏のズンチャッチャのズンよりチャッチャが、しかも、最後のチャが大きくてズッコケるリズムになっている。左手がうるさくて右手のメロディが全然聞こえない。
動画で学んで頭で理解して、自分では意識して弾いているつもりだったが、実際には全然できていなくて愕然とした。今すぐ左手の練習をしたくなったけれど、夜遅いのであきらめた。
明日もバイトの後、コモレ四谷で弾こうと思っていたのに、なんだか心配になってきた。
5歳の頃に習った楽譜
10月18日 水曜日
ストピ、今日はひとり待っている人がいた。演奏中の人も、待っていた人も、私のあとに弾いた人も、上手だった。
私は昨日の反省点を改善しようと、左手をできるだけ小さく弾くことばかり意識して、右手がいい加減になってしまった。
今までで最も自信のない弱々しいノクターンだった。
ひとりだけ、私の次の順番の人が、小さな義理の拍手をくれた。ほかに3人くらい周りにいたが、無反応だった。
帰宅したら6時だったので1時間ピアノを弾けた。ノクターンの左手の練習をした。とても難しい。小さな音で弾くのがこれほど難しいとは!弱すぎて音が出なかったり、フニャっと指がもつれたり。今まで良い気になって弾いていた自分がニクい。これからは、他の曲はさておきノクターンだけを猛特訓しよう。
10月19日 木曜日
今日も四谷でバイト終わりにストピ。ノクターン2番。スマホで動画撮影した。周りには誰もいなかったが、この後、ヌトグラン展を見るので、1曲だけにした。帰宅後、動画を自己分析した。上半身がぐらぐらしていて格好悪い。椅子がピアノから遠いからか?座面も低すぎるかな?何十年も自己流で弾いているうちに、いつの間にか椅子の調整を忘れていた。
10月20日 金曜日
日中は知人と下北沢でランチだったので、帰宅して5時半から7時までピアノを弾いた。今までは好きな曲、6曲を1回ずつ弾いて30分で終わりにしていたが、ノクターン2番だけなのにあっという間に1時間半が過ぎた。
寝る前に、mario iwai 先生の重力奏法ピアノちゃんねるを見た。
音は鍵盤で鳴ってるんじゃない!ココ(楽譜を置く側面の内側。ピアノ線をハンマーで叩いてる場所)で鳴っている!
という、「踊る大ピアノ線」のような名言を聞いてハッとした。鍵盤だけでなくハンマーを意識して弾いてみよう。明日はピアノを開けて練習してみよう。
10月21日 土曜日
今日はピアノを開けた。開ける時は八ちゃん、閉める時は吉ちゃんに手伝ってもらった。二人とも、ピアノの中身が見えて嬉しそう。八ちゃんは両手の人差し指だけでラカンパネラのメロディを少しだけ、吉ちゃんは超絶技巧で有名なショパンのエチュード10ー4を解説動画を見ながら熱心に練習していた。子どもがピアノを弾いていると嬉しい。
さて私は、椅子の調節で体のぐらつきが直ると思いきや、癖が抜けず無駄にぐらついていて自分の動画を見ると気持ち悪くなる。右手のメロディに合わせての動くならまだしも、左手のズンチャッチャに合わせて動くのがすごくダサい。
明日は朝から三茶de大道芸三茶de大道芸を見に行くので、多分ピアノを弾く時間がない。
明後日がコモレ四谷でピアノを弾く最終日。
明後日のために、今日はできるだけ練習して、せめてグラつきだけでも直したいと思い、演奏と動画チェックを繰り返した。午前中は1時間半、午後は4時間、合計5時間半かけて、やっとどうにかぐらぐらしなくなった。左手を小さい音で鳴らすのはいくら練習しても上手くいかなかったので、作戦変更。他の音を大きく弾くことによって、小さく弾けない部分が相対的に小さく聞こえるようにした。とくに右手のメロディは大きな音で弾くことにした。
出張から帰ってきたてる君に、「前よりめちゃくちゃ上手くなった。こんなに良い曲だったのか!」と言われた。落語好きなてる君に、「ショパンのノクターン2番は、「死神」みたいに演者のセンスに任されて自由に解釈して良い部分があって、個性を出しやすいから聴き比べが面白いよ。」などと講釈すると、聞き比べしたいというので、プロのノクターン2番をいくつか紹介した。辻井伸行の演奏は癖がなくて誰からも好まれる演奏。意識的に個性を出そうとしないのが、辻井さんの個性のような気がする。清塚信也は、これでもかというほど繊細で優雅で甘い演奏。視覚的なパフォーマンスでも楽しませてくれる。陶酔しきった表情も、舞うような手の動きも、笑っちゃうほどうっとりする。清塚さんと対照的なのはフジ子・ヘミング。力強く鍵盤を叩くような弾き方なのに、その音は深くて優しくて心に沁みる。そして音が泣いている。黒人ブルースのように悲しい響き。生き様が音に滲み出るのだろう。
昨日、下北沢の古道具屋で買ったウサギ
10月23日 月曜日
コモレ四谷のストリートピアノ設置期間は明後日の16時までだが、明日はバイトがなく。明後日もバイトが終わってからだと16時を過ぎてしまうので、今日が私にとっては最終日。バイト後、「誰か弾いてるかな?」とドキドキしながら行ってみると、お母さんに見守られて3歳くらいの子が弾いていた。鍵盤を押すと音が出るのが楽しそう。私にもそんな時期があったんだろうな。ピアノ教室に通うようになったら出せなくなるであろう、自由奔放な音を出せる時期。近くで順番待ちをしたら気を使われてすぐに譲られてしまうと思い、用もないのにエスカレーターに乗ってみた。すると、上のフロアは座り心地の良いふかふかな椅子が30席程ある憩いのスペースになっていて、人々がくつろいでいた。吹き抜けなのでピアノの音がとてもよく聞こえる。今まで観客はピアノの近くにいる人だけだと思っていたけれど、ここにいる人達にも聞こえていたのか!
私もふかふか椅子に座ってこの日記を編集しながらピアノが空くのを待っていると、さっきの小さい子の演奏が終わり、ピアノ経験者らしい人のポップス系の曲が聞こえてきた。ちょっと下を覗いてみたら、小学生の女の子だった。聞いたことがあるようないろんな曲を次々と弾いている。私も昔、あんな風に流行歌を耳コピして弾くのが楽しかったなぁ。その少女が2、30分程弾いた後には誰も弾かなかったので、私が弾くことにした。曲はもちろんノクターン第2番。録画もした。
弾き終わってもピアノの近くには誰も居なかったが、一曲だけにした。帰宅して動画チェックしてみると、和音を誤魔化していたり、いつもより早いテンポで弾いていたり、最終日で緊張しちゃったかな?という演奏だった。土曜日あんなに練習したのに左手の伴奏がまだ大きいし姿勢もグラグラ…ほどではなくなったが、ゆらゆらしていた。
気になることは多々あれど、初めて自分の動画を撮った時に比べれば随分マシになったと思う。
ピアニストユーチューバーの動画と、ストリートピアノのおかげで、短期1曲集中という発表会のような体験が出来て刺激と充実感が味わえた。
今回は長い文章を最後まで読んでいただきありがとうございます。感謝の気持ちを込めて、最終日の動画をひっそりここだけで限定公開します。
(津川聡子 作)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
津川聡子作「やっとこ!サトコ なう」「第140話 ストリートピアノ発表会」いかがでしたでしょうか。
今回はいつもの漫画とはちょっと違う番外編をお送りしました。ピアノの演奏は人に聴いてもらうパフォーマンスでもある一方、ほとんどの時間は一人で練習する孤独なもの。ピアノと向き合うってどういうことなのか、疑似体験できたような日記でした。ノクターン2番が落語の「死神」というたとえも絶妙! テンポや緩急のつけ方一つでも印象の変化が大きくて、弾く人のあり方を映してしまう曲なんですね。私は、津川聡子さんの演奏から、憧れとか、思い出とか、目に見えなくて儚いけれど、他人が奪い去ることのできない世界の広がりみたいなものを感じて、心洗われました。みなさまは、どうお感じになられたでしょうか。
「やっとこ! サトコ なう」へのご感想・作者へのメッセージは、こちらからどしどしお待ちしております。次回もどうぞお楽しみに♪