足利直義:しかし、和尚!
「人は皆、奥深いところに元から持っていた『本物の智慧』を持っている」などとおっしゃいますが、実際にそれが100%発揮できた人など、私は未だかつて見たことも聞いたこともありません。
なぜ、皆それができないのかといえば、ずばり皆、揃いも揃って「バカ」ばかりだからじゃないですか。
なのに、「智慧はジャマだから捨てる」なんてことをしてしまったら、皆「永遠にバカのまま」ということになってしまうのではないでしょうか・・・
夢窓国師:例えばじゃな、日常生活をどのように過ごしたらよいのか自分で判断できないような人は、「〇〇占い」とかを読んで参考にしたりすることがあるじゃろう。
占いに書かれていたことを実行してみたからといって、すぐさま結果が現れたりすることなどあるわけもないのじゃが、信じ続けておれば、いつか納得のいく結果を得る時がくるものじゃ。
同じように、仏教の教えの内容が深すぎて理解出来ないような人は、とりあえず教えに出てきた言葉を丸暗記することを「信仰」と呼ぶほかはない。
「智慧」というか、「頭でっかち」はダメだからやめろ、というのは、我ら禅宗だけが言っているのではない。
法華経にも、「遠い昔、空王仏という名の仏の元に2人の修行者がいたのだが、ひとりはとにかく大量の知識を身につけることに喜びを感じ、もうひとりは知識を詰め込むよりも実際に行動に移すことの方を重視していた。
もう気づいていると思うが、この時の知識量重視の修行者は、つまりアーナンダ、お前のことだ。そして、行動重視の修行者というのは私のことだ。
知識と行動に関する態度の差が、今のオマエと私の差になっているわけだ」
と、ブッダが説いたという話が出てくる。
首楞厳経(しゅりょうごんきょう)にも、同じエピソードが載っておる。
円覚経には、「最近の連中ときたら、『立派な人』というのは『知識の豊富な人』のことだとカンチガイしちまって、アレコレと詰め込んで嬉しがるばっかりで、真面目に日常に取り組もうとしない」と書かれておる。
ここまで言うと、「ああ、『知識人』というのは『クイズ王』のことであって、『智慧』があるかどうかとは別問題なんだな」、などと思うヤツもおるじゃろう。
しかしじゃな、そんなヤツも、やはりまた「知識」と「智慧」の区別がついていないと言わざるを得ない。
楞伽経(りょうがきょう)には、「立派な人になりたいというのであれば、知識人と交流を深めなさい。ただし、間違ってはいけません。ここで『知識』というのは、『大量の情報を詰め込んでいる』という意味ではなく、『ものごとの理(ことわり)を正しく理解している』という意味なのです。そして『ものごとの理』は、いわゆる『言説』からはもちろん、『思索』からも離れたところにあるのです」、と書かれておる。
ワシは、あえて、「世間の人々が『智慧』だと考えているものは、全て『詰め込まれた情報』に過ぎない」と断言しよう。
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