別訳【夢中問答集】第二十七問 智慧とは、ただの道具である 3/3話

  • 華厳経にも、「思い立った瞬間、実は既に修行は完成しているのだ」などと書いてある。

テキスト研究を重視する学派の連中が、「苦労して十地の菩薩修行を卒業しても、それだけではまだ妙覚に至れないというのに、そこら辺のうすらアホウがいきなり究極の智慧を得るなんてことがあってたまるもんか!」などと批判するのは、つまり「究極の智慧」というものの存在を信じることができず、「アホが治った状態が智慧」じゃと考えているからに他ならない。

六波羅蜜を示したり、52の修行レベルを定めたりなどということは、全て偏差値が60に届かない連中のためにやっていることじゃ。

六波羅蜜の中で特に「智慧(般若波羅蜜)」を重視するというのは、かりそめの「智慧」を渡し舟として、イケてない連中を向こう岸に渡してやるための方便であるに過ぎない。

仏教のテキストに、「そんなにテキストの勉強したいなら、まぁ止めないから好きなようにやってみな!」と書いてあるのはつまり、このことじゃ。

仏教の目的は「テキストの勉強」をすることではないからじゃな。

渡し舟は、大河を超えて向こう岸に渡るための重要なツールじゃが、あくまでも目的を達成するための道具であるに過ぎない。

なのにアホウどもは「渡し舟」こそが一番大事なのだと考えておる。

仏様がこの世に生まれてきてあれこれと教えを説いてくださったのは、様々な状況や感情の奔流に押し流されて溺れかかっている連中を向こう岸に渡し、しっかりと自分の足で地に立たせるがためじゃ。

折角向こう岸に渡るための舟に乗り込めたというのに、舟が気に入ってしまっていつまでも舟から降りようとしないというのでは、いつまでたっても奔流を漂うばかりじゃ。

本当に才能のあるヤツは、誰かが用意してくれた「渡し舟」になんか乗らない。
何故ならば、自力で空を飛んで向こう岸に渡ることができるからじゃ。

こういう人達に「いや、まずはこのテキストにじっくりと取り組まなければ!」などと押しつけるのは、飛行自在の人に舟を持たせるようなもので、ハッキリ言って邪魔以外のなにものでもない。

禅宗がテキスト研究に重きをおかないのは、ひとえにそのためじゃ。

さて、禅宗の連中は「師匠の言行」に重きをおいておるが、これは要するに「師匠の言行」という渡し舟に乗っているだけのことなのであって、「渡し舟に乗っている」という点において他の宗派との違いはない。

で、「こっちの方がいい舟だ!」などと思いあがってみたところで「舟に乗っている」という点では同じであるので、もしいつまでも舟から降りないというのであれば、「向こう岸になんて行きたくないから舟なんて要らない!」なとどいうヤツよりはマシだとしても、向こう岸に渡れないということでは変わるところがない。

先に述べた「三賢十聖」の人たちは、それはもう立派な舟に乗っておるのだが、その舟から降りることができていないが故に、「奔流」を渡れていない。

ましてや、ちっぽけな舟の中で満足していていいことなどあるわけがなかろう!!


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