今年もクリスマスの季節がやってきた。昨年のこのノートを読み返してみると、息子はクリスマスをうっすらと認識し始めた頃で、養育者としての自分は「サンタはいるのかいないのか問題」にいち早く取り組んでいたことがうかがえる。結果的にはサンタはいるということになったわけだが、その判断はそんなに間違ってはいないような気がしている。
今や息子は「メリー・クリスマス!」と大きな声で言っているし、近所の商店街を歩けばどのお店のどの場所に、どんなサンタがいるかを熟知している。サンタにはソリが必要なこと、トナカイが一緒にいること、プレゼントを入れた袋を持っていることなど、サンタクロースに関する一般的な知識のほとんどを持っており、こと生活圏のクリスマス事情に関しては圧倒的に自分よりも詳しくなっている。
かなりしっかりとした会話が成立するようになった今、クリスマスとサンタクロースの存在はもはや自分たちにとっての共通認識になっており、それを通じてコミュニケーションを取ることが可能になっている。これは本当に大きな成長であり、1年前までは考えられなかったことである。
こうなってくると次に訪れるのは「プレゼント問題」である。昨年、色々とややこしいことを考えた末にやはりサンタはいるということになったので、今年から急にいなくなるわけにはいかない。養育者としてはコミュニケーションの一環として子どもの夢を聞いておくことも大切だろう。そう思ってある時こう尋ねてみた。
「ねえ、クリスマスに何が欲しいの?サンタさんにプレゼント何をお願いする?」
「えっと、くさいさかなっ!」
「え!?・・・くさいさかな!?・・・。くさい魚なの?」
「うん、くさいさかなっ!!」
何かの聴き間違えかと思って確認するも、どうやらサンタには「くさい魚」をお願いするらしい。
一般的にはミニカーやゲームなどのおもちゃや、ケーキやチョコレート、アイスクリームなど、普段たくさん食べさせてもらえない特別なおやつというのが小さな子どもがクリスマスにお願いするものの典型だろう。
にもかかわらず、どうして「くさい魚」なのか。子どもの考えることは本当にわからない。
さらに言えば、くさい魚は父の苦手なもののひとつである。くさやを筆頭に、自分はどうにも生の青魚や磯臭いものが得意ではなく、あまりそういう類のものが食卓に並ぶことはないし、できれば避けて通りたいもののひとつなのである。
子どもは実にいろいろなものから情報収集をしており、大人が全く気が付かないようなことに好奇心を持ったりする。くさい魚がとても魅力的に感じる何かが、きっとどこかで息子にインプットされたことは間違いないだろう。しかし、自分には全くその覚えがない。
そこで、さらに詳しく事情を聴いてみることにした。
くさいさかなはどこにいるのか、どうしてくさいさかなが欲しいのか、少しずつ話をきいてみると、どうやらそこに「鳥」が関係しているらしいことはわかってきた。
そういえば、最近よく見ていたお気に入りのアニメの中に鳥が主人公のものがあった。小さな島に暮らす様々な動物たちの生活を描いたそのアニメの中には、海も山もあり、魚も登場する。
このくさい魚はその中の、海の潮だまりの中にいる魚のことなのではないかと思われる。どうしてそこに魅力を感じたのかはわからないが、それが子どもの個性ということなのだろう。
ともあれ、この1年で息子のコミュニケーション能力は飛躍的に向上し、言葉が話せなかった頃とは比較にならないほどに自分の気持ちを伝えられるし、さらには以前の記憶を遡って話しだしたりもするので驚くことがある。
友人に聞いた話だが、子どもが急に食べ物の好き嫌いをするようになり、前は好きだったのにどうして食べないのかと聞いたところ、その頃は話せなかったから嫌いだと言えなかっただけだ、という答えが返ってきたそうである。
言葉はそのくらい大きな要素だということだが、より複雑で人間的な意思疎通をするためには、同時に大人にも「聞く力」が必要になってくる。言葉の先にある子どもの気持ちを想像し、補完していくことで子どもは「伝わる」ことのうれしさをしっかり感じて育っていくのではないだろうか。
クリスマスや年末年始は子どもにとっていつもとは違う一大イベントであり、そこでどんな経験や思い出を持つかはその後の人生に大きな影響を与えるのではないかと思っている。
プレゼントの数や種類にかかわらず、素敵なものだと思ってもらえるように努力したい。
臭い魚はいやだけど。
(by 黒沢秀樹)