「はこう、はこう、鬼のパンツ〜」
年始のあれこれが過ぎて1月も半ばになると、日々買い物に行くスーパーでいつからかこの曲が流れてきて頭から離れない。きっとスーパーにとって次の商機は節分ということなんだろう。
この「鬼のパンツ」、日本で暮らしている人なら誰しもどこかで聞いたことがあると思うが、メロディーには全く日本的な雰囲気が感じられない。元は確かどこかの国の民謡だったような気がしてちょっと調べてみると、「フニクリ・フニクラ」というイタリアの曲だった。実は登山客用のCMソングとして作られたそうで、当時の作曲家(ルイージ・デンツァという人らしい)はまさかその後遠く離れた異国の地で、鬼という空想上の生き物のパンツの歌になるとは想像もしていなかったに違いない。世の中にはいろんなことが起こるものなのだ。
節分。これも子どもがいなかったらまず完全スルー案件であり、自分の人生に再び戻ってくることのなかった行事だろう。しかし、鬼という存在は子どもたちにとってはもはやサンタクロースと同じくらいの認知度を獲得しており、「早く寝ないと鬼さんがくるよ」などと養育者である自分たちもよく言っているので、これまでのようにスルーするわけにもいかない。
そんなわけでスーパーの策略にまんまと引っ掛かり、鬼のお面と豆を購入して豆まきをすることになった。トイレに入った隙にお面を顔につけ、ドアの隙間から、
「わー!助けてー!お父さん鬼に食べられるー!助けてー、わーっ!・・・」
と言ってお面をかぶり鬼に変身して外に出て行くと、子どもは大喜びして絶叫し、飛び跳ねて走り回っている。
そして「鬼は外」も「福は内」もなく、とにかく叫びながら猛烈な勢いで豆を投げまくる。
「いや、ちょっと待て、鬼は外って・・・」(ガーっ!バシバシバシ!!)
「豆!豆なくなっちゃうから少しずっ・・・」(ギャハハーっ!バシバシ!!)
もうこのテンションは誰にも止められないとあきらめ、「うおー!痛い!豆だ、豆だー!」と言いながら這いつくばって玄関から逃げ出すと、歓喜の声が玄関の扉越しに聞こえ、ようやく少し落ち着いた様子である。そっと部屋の中に入ると、子どもはとにかく鬼をやっつけた達成感でいっぱいだ。
自分も幼少期に豆まきをした記憶がうっすらとある。当時は家長である父が「鬼は外、福は内!」と言いながら豆を撒き、自分たち子どもはその後をついて回った記憶がある。本来はそういうものだったらしいが、いつの間にかサンタ同様に家族の誰かが鬼になることになったらしい。そして撒いた豆が年末の大掃除の時などに玄関や食器棚の下などいろんなところから出てきて大変だったので、それ以降はやらなくなったような気がする。
そんなことをぼんやり思い出していたら、ある日出かける時に階段の踊り場で、息子がよく一緒に遊んでいるやんちゃなお友達の話をし始めた。
「○○くんはパンチしたり、おもちゃを貸してくれなかったり意地悪なんだよ、それはよくないよね」
そして胸に手を当ててこういった
「心に鬼さんがいるんだよ」
心に鬼がいる。そんな抽象的な表現ができるようになったのか、としばし遠い目になったが、子どもは3歳から4歳くらいを境に、今自分の目の前にある現実の世界と、心の中の世界を分けて考えることができるようになるらしい。
確かに、鬼は自分の心の中にしかいない。様々な邪念や確証のない猜疑心、不信感やネガティブな妄想。そんな鬼と戦って退治できるようになるのが大人になるということかもしれない。自分もまだまだ鬼に食べられそうになるけれど、そんな時は豆でもかじることにしようと思う。
ちなみに歳の数だけ豆を食べるという慣例もあり、52粒もただ炒っただけの大豆を食べるのも気が進まなかったが、これが食べてみると意外においしかった。豆も鬼も、時代に合わせて確実に進化しているのである。自分も様々な鬼とうまく折り合いをつけていきたいと思う。
(by 黒沢秀樹)