なぜかこの一週間ほど、息子は自分の行動範囲内にあるあらゆる階段の踊り場で立ち止まり「父さんはここで待ってて」と言い、しっかりと手のひらを差し出して行かせてくれない。
ちょっとでも動こうものなら「ダメ!ひとりでいくのっ」とすぐに制止されるのだが、どうも安全の確認ができるまでそこで待機しているように、というような切迫したニュアンスも感じる。
子どもにとって階段はなにかと冒険心をくすぐる場所なのかもしれない。
納得のいく場所まで着くとようやく「父さん、いいよー」と許可が出る。そろそろと息子のところまで降りて踊り場に着くと、また「父さんはここで待ってて」と言われる。
これは何かのアニメに登場するリーダーやヒーローのように、危険な場所に自ら率先して飛び込み、仲間を先導する役割を演じているのだろうか。それとも、いつも何かと指示をされているので、自分も指示が出したいということなのか。
いずれにせよ、大人にとってそこはただの階段である。急いでいるときにこれをされるとつい「早く行くよ!」などと言って抱えて運びたくなってくる。しかし、それをすると絶叫されて結果的にさらに時間を無駄にすることになるので仕方なく付き合うのだが、今日は自らスーパーで選び、大事に持っていたはずのコロッケがその冒険によって犠牲になった。
やりたい仕事が山積しているというのにこういうことを続けていると、時折「俺いったい何してんだろう?」と思うことがある。大人には他にもやるべき大切な仕事や約束事がたくさんあるのだ。
しかし、本当は逆なんじゃないか、と思うようにもなってきた。
仕事というのは自分の時間や労力を誰かのために費やすことである。その誰かがまずは子どもであることは間違いではないだろう。そんなふうに考えられるようになったのは、つい最近のことである。
子どもの養育費や将来を考えて仕事を増やし、がむしゃらに働いて子どもに接する時間がなくなってしまう人、育児のために仕事を休んだり辞めたりして積み重ねたキャリアを失うことに焦りや不安を感じている人。そういう方々の話が、世の中には本当にたくさん溢れている。これは子どもが悪いわけでも、養育者に問題があるわけでもない。
「ここで待ってて」と階段で誰かに待っていて欲しいのは子どもではなく、実は子育てをしている大人の方ではないだろうか。
そんなことを考えながら、待たせている仕事に思いをめぐらせている。
(by 黒沢秀樹)