「よう、にいちゃん!」
先週の昼過ぎ、ようやく手に入れたチャイルドシート付きの電動アシスト付き自転車で信号待ちをしていたら、背後から声をかけられた。
振り向くと、小学校3、4年生と思われる子どもたちの7、8人の集団がいた。
最初に目があったのは眼鏡をかけた内気そうな少年、そして隣にいる見るからにやんちゃで端正な顔立ちの少年だった。
「ん?今日学校早いの?」
「うん!今日4時間。。。あれ?怒られると思ったのに・・・」と、やんちゃイケメン。
どうやらやんちゃがメガネに「よう、にいちゃん」と声をかけてみろと指図したらしい。
「そういう日もあるんだねー」
自分は「にいちゃん」と呼ばれるにはかなり微妙(というか無理)な年齢だし、きっときみのお父さんよりも年上である可能性が高いと思いつつそう答えると、やんちゃイケメンが「子どもいるの?」と聞いてきた。
どうしていきなりそんなことを聞くのかとも思ったが、急ぎの用事で子どもを乗せてはいなかったとはいえ、自分がチャイルドシート付きの自転車に乗っていることを思い出した。そりゃそうである。
「うん、いるよー」と答えると、返ってきた質問に一瞬戸惑ってしまった。
「ねえ?どうやったら子ども出来んの?セックス!?」
きっとその日は学校で子どもの性教育の授業があったんだな、ということはなんとなく想像できた。
ちょっと考えて自分がどうにか言った答えは、
「うーん、それも大事なんだけど、それだけでできるもんでもないんだよなあ。。。」
「わかった!じゃあ、愛情!?」
「そう、もちろんそれも大事なんだけど、でもそれだけってわけでもないんだよなあ・・・」
どう答えるべきか考えている自分に、聡明なやんちゃイケメンは、実に的確な返答をした。
「そっか、子どもにはいろいろわかんないけど、大人になればわかるってこと?」
「大人になればわかる」というのは最も簡単な大人の言い逃れである。大人になってもそういうことがわからない人もたくさんいて、わからないからこそ言い逃れをするのである。
自分もその少年の質問に自信を持ってうまく答えられないことに躊躇しつつ、
「そうだね。きみもきっとわかると思うけど、結構ハードル高いぜ。でも大丈夫!きっとできる、がんばれよ!」
そう言うとやんちゃイケメンは親指を立てて、笑顔で「OK!」といってメガネくんと取り巻きを連れて走っていった。
果たして自分の曖昧な答えはどのくらい少年の役に立ったのだろうか、と自転車を走らせながらしばし考えたけれど、少なくとも嘘はついていないので、まあいいかと思うことにした。
自分が子どもの頃と今の教育現場ではこうした課題の扱われ方はずいぶん進化しているのだろうとは思うが、メリーゴーランドのことを「メランドラゴン」と言っている息子にとってはまだ少し先のことだと思っていた。
しかし、あと数年もすればきっと息子もそうしたことに否応なく対峙することになることは間違いない。「よう、にいちゃん!」と小学生に声をかけられたことで、その現実に突然向き合うことになったわけだ。
少子高齢化が加速する社会で、婚活や妊活という言葉もよく聞かれるようになった反面、望まれない妊娠や出産、日々報道されるDVやネグレクトによる痛ましい事件。そして昨今ようやく認知が広がってきたジェンダーに関するあれこれや、育児に関する社会的な様々なハードル。
そう考えると、性に関することや子どもを産み育てるということを、とても一言では言い表すことはできない時代になっていることは間違いないだろう。「正解なんてない」ということしか自分には言うことができないのが正直なところである。
それぞれが異なる価値観や環境の中で生まれてくる子どもたちは、遺伝的要素や認知能力に違いはあれど、基本的にはなんの色付けもされていないはずだし、されるべきでもないと自分は思っている。それでも子どもは最も近くにいる養育者やその環境によって生活様式のインプットから物事を知り、それを基盤にして生きていくことになる。
最近息子がよく「父さんのお仕事を見ながら寝る」と言ってベッドから抜け出して仕事部屋にくることがある。たまにギターを弾いて歌ったりしている自分の姿を見たり、モニターに向かって延々と作業をしている自分の様子がどう見えているのかはわからないが、少なくともそれが「とても大変で辛いこと」だと子どもには感じてもらいたくはないと思っている。
「親の背を見て子は育つ」とはよく言われることだが、背中ばかり見せるのではなく、正面から向き合ってばかりでもなく、時には横に並んで同じ風景を見ることも大切だろう。今自分の向き合っているモニターの向こう側には、小さくても受け取ってくれる誰かがいるということを、一緒に想像してもらえる背中であって欲しいと願っている。
(by 黒沢秀樹)