ついにプラレールデビューをしてしまった。
「トミカ派」で行こうと決めていた自分としては、これまで幾度もあったプラレールの誘惑に負けず、頑なにその扉を開けずにきたが、ついにその鍵をこじ開けられる日が来てしまった。
一応説明をしておくと、トミカというのは主に自動車をメインにしたミニカー、プラレールというのはプラスチックの線路を走る列車のおもちゃで、日本を代表する子どものおもちゃの2大巨塔とも言えるものだ。
日本で育児をしている限りはほぼ避けては通れないもののひとつと考えてもらっていいと思うが、子どもの好みや環境(何しろ場所を取る)によって選択肢が分かれる。自分は子どもの頃から自動車好きでトミカに対する思い入れが強いのと、自宅の環境が拡張性の限りなく大きいプラレールにはそぐわないという理由で、トミカ派で行くことを決めていた。
きっかけは蚤の市で道端に無造作に箱に入れられた、使い古された機関車トーマスのプラレールセットだった。それに気がついた4歳児は、そこに立ち尽くしたまま動かない。
「こんなの持って帰れないよー」
「やだ、これがいい!トーマス、トーマスのプラレール買ってえ」
「置くところないよ」
「お願い、おねがーい。。。」(涙を浮かべた懇願が始まる)
そろそろ帰ろうと思っていたし、無理矢理引き離せば絶叫することは目に見えている。子どもを連れて歩くのにもかなり疲れていたので、ひとまず値段を聞いてみることにした。値段を聞けば自分の中であきらめもつくし、子どもへの言い訳もできるだろう、という気持ちもあった。
「あの、ちなみにこれっておいくらですか?」
「ちょっと待ってね。。。えーと、少し足りない部品とかあるから300円!いや、200円でいいや」
「200円っ!?」
あまりの値段に思わず声が出てしまった。
「ちょっと足りない部品とかあるけど、ほら、これ色々買い足せるし、一応動くよ」
スイッチを入れると、確かに車輪は回る。
使わなくなったおもちゃは、捨てるよりも誰か使ってくれる人がいればそのほうがいい。その気持ちはわかる。そしてその金額を聞いた上でやはりいりません、とは言えなくなってしまった。何しろ交渉もしていないのに破格の300円からさらに200円まで値下げされているのである。
そんなわけで、息子は初めてのプラレールを手に入れた。
家に帰るとさっそく組み立てはじめたが、やはり線路の部品がひとつ足りない。そして肝心のトーマスが動かない。いや、厳密に言えば動いている。動いてはいるが線路に乗せると走らない。たぶん内部のギアの一部がダメになってしまっているのだろう。そういう意味では「一応動く」というのは嘘ではないギリギリのラインである。しかし子どもはとにかくうれしそうで、はじめて手に入れたプラレールにとても満足している様子だった。
しばらく走らないトーマスで遊ぶ日が続いたある晩のことである。現在息子には寝る前のルーティンが6つあり(だいぶ多い)、その最後が絵本やおもちゃのカタログをベッドで読むことだ。思い出すと自分も子どもの頃、おもちゃのカタログを見て夢を膨らませていたし、叔父がもらってきた本物の自動車の販促用カタログなどは宝物だった記憶がある。
おもちゃのカタログを見ながら「どれがいい?父さんはこれかなあ」などと言っていると、息子がふとしばらく間を置いてこう言った。
「ちゃんと走るトーマスがいい。。。」
この時の自分の気持ちを表す言葉は何だろう、としばし考えていたが、「不憫(ふびん)」というのが最も近いのではないかと感じた。ちなみに辞書で引くと「かわいそう、あわれむ、気の毒、都合の悪いさま」そして昔は「かわいがる」という意味でも使われていたらしい。
今の時代、誰かを「不憫に思う」ようなことはあまりなくなったような気がする。
現実には良くも悪くも極端で刺激的なことがたくさん起きているがゆえに、こうした憐れみや同情、葛藤などの気持ちが複雑に入り混じった、日本的で微妙な表現が使われる機会が減っているのかもしれない。
そんなことはともあれ、息子に不憫な思いをさせてしまっている自分は、「みんなに優しくする」という約束で、翌日に新しいトーマスを注文した。
ちゃんと走るトーマス(当たり前だけど)に息子は歓喜したが、走らないトーマスがいたことによって、その喜びはさらに大きなものになったのだと思う。その差は約10倍の金額以上のものだったのではないだろうか。
不憫を感じられる自分でいたいと思うのと同時に、息子にもそうあって欲しい、と願っている。
(by 黒沢秀樹)