「これアーモンド入ってる?」
いただき物の焼き菓子などを見つけたときに、ある時期から子どもが自主的に聞くようになった。以前クルミの入っているお菓子を食べて発疹などのアレルギー症状が出てから、ナッツ類を食べさせないように気をつけていたからである。
タルトやフィナンシェなどの焼き菓子にはアーモンドが含まれていることが多いので、自分もメガネで原材料表示をよく見るようになった。
「ねえねえ、これはアーモンド入ってる?」
「ちょっと待って。うーん、残念。入ってるねえ」
「そうか、じゃあダメだね。ぶつぶつできちゃうからね」
という具合で、これについてはわがまま王子のあきらめも早い。
この際あまり食べさせたくないものや値段が張るものには全てアーモンドが入っていることにしてしまおうかとも思ったが、そんな都合の良いウソがいつまでも通用するはずがないし、そもそも子どもにはなんでもおいしく食べられるようになって欲しいというのが養育者としての素直な気持ちだ。
自分も昔は特に思い当たることがないにもかかわらず、一日中ひたすらくしゃみと鼻水が止まらないという典型的なアレルギー症状に苦しめられた時期があった。それがライブ本番に重なったりすると、ギターで両手が塞がっている状態で鼻水が出てきてどうにも情けない状態になったこともある。そしてその症状は何の前触れもなく突然発症し、一晩眠るとすっかり良くなっているということがほとんどだった。
調べてはみたものの、結局何のアレルギーなのか全くわからないまま、その後ほとんど出なくなってしまった。
息子は赤ちゃんの頃に乳児湿疹がかなりひどく出たこともあり、その後目や鼻にも症状が出始めて、3歳になってあらためて病院に連れて行ったところ晴れて花粉症という診断を受けた。そんな言葉さえなかった自分の幼少期と比べると、きっと今はずいぶん多くの診断基準が確立されているのだろう。最近は小さい子どもにも花粉症はかなり多くなっているらしい。
知人の結婚式に招かれて出てきた子供用のプレートに入っていたオムライスを食べてマーライオン状態になったこともあった。どうも卵が少し半熟気味だったことが原因らしいが、その日は自分が一曲お祝いの曲を歌うことになっていて肝を冷やした思い出もある。
そんなわけで、あらためてアレルギー科の病院に連れて行ってきちんと検査をしてもらおうと思ったのだが、そこで自分はアレルギーについてかなり偏った(というか現状では不正確な)認識をしていたことに気付かされた。
まずは「以前一度しているなら、今のところ検査の必要はない」と言われたことに戸惑った。どういうこと?と思い話を聞くと、大体3歳から5、6歳くらいの期間というのはさまざまな変化が起きる時期で、アレルギー反応の検査をしたところで、それが指針として正確に機能することがないので検査をしてもあまり意味がない、ということだった。検査を受けて陽性の数値が高かったものでも全く反応が出ないこともあるし(息子の場合はゴマなど)、逆に検査では反応が出ていないにもかかわらず強い身体症状が出る場合などは、その状況や食べ合わせなどを含めてあらためて詳しく調べることになる、とのことだった。
何のアレルギーかを知りたくて病院に行ったにもかかわらず、検査もせずに結果「今はよくわからない」というのはなんだかモヤモヤした気持ちになったが、そういうことなら仕方がない。特に現在アナフィラキシーのような強い反応が出ているわけではないので様子を見るより仕方がないということなのである。逆に言われたのは、なんらかの特定の食品などをアレルギー物質と断定してしまうことによって、養育者の中にはその食べ物を一切与えず、家族も口にしないようにするといった偏った対応をしてしまうことによって、その子どもは本当にずっとそれを食べることができなくなってしまうという状態になる可能性もあるらしい。
なにごとも「ほどほどに」ということなのだろうが、コロナ禍を経て今はとにかく「良い塩梅」とか「適当に」「ほどほどに」という曖昧な基準が通用しにくくなっているような気もする。子どもは本来、落としたビスケットを拾い食いするくらいでちょうどいいのかもしれない。
ちなみにナッツ類はどのくらいの時期から、どのくらいの量を食べさせてみたら良いのかしつこく相談してみたところ、個人差もかなりあるので判断が難しく現在は基準値がないとのことで、それこそどうしても気になるなら専門の医療機関に依頼して判断を仰いだ方が良いし、その場合は紹介状も書いてくれるとのことだった。ひとまず花粉症の時期は避けて、ほんの少しずつ食べてみて大丈夫なら随時増やして慣れさせていく、というのが現在の一般的な指針らしい。
アレルギーに限らず、なんでも極端なものの考え方は逆に良い結果を産まないということなのだろう。
アレルギーというのは免疫の誤動作、勘違いのようなものであり、別にナッツが悪いわけではなく、それを息子の体がどう認識して反応するかということなのである。ある人にとっては良いものとして認識され、またある人にとっては有害なものとして判断される。これは人間の身体と同様、心のものの捉え方ともかなり近い気がする。
人間の心と体は同じようなシステムを持って連携し、統合されているのではないかとあらためて感じている。新薬の治験で効果にプラセボ(偽薬)との差異が重視されるのもそういうことなのだろう。「だいたいは気のせい」というのもあながち間違いではないのである。
(by 黒沢秀樹)