家系図調べと祖霊崇拝と永遠の生命と(2)

前回は、高齢になって、家系図や自分の家の歴史に凝りだす人がいるのはなぜだろうという話をした。

さて、個人的な家系図調べはさておき、宗教における祖霊崇拝、あるいは先祖供養においては、祭祀が代々継承されることが必須である。(家系図調べにしても、少なくとも家系図が作成され、伝承される必要はある。)
そろそろお盆(旧盆)の季節だが、お盆、お彼岸などの伝統的な先祖供養の行事は、親類が集まって行なう、あるいは相互に訪問し合うのが一般的である。
子供達も、大人と同様参加する。そのような行事に参加することで、次の世代を担う子供達にも、先祖を祭るという習慣が次第に伝わってゆくことであろう。
少なくとも、現在祭祀を執り行なっている人は、子供達が、自分と同様この伝統を守ってくれるはずであると期待することができる。
このことによって、先祖に対する(主観的な)一体感は、自分の子孫にまで広げられるのではないか。

だが、現在では、お盆やお彼岸のような先祖の霊を供養する行事は、とくに都市部では消滅しかかっている。
それでもお盆の時期に田舎のスーパーに行けば、お供え物や会食用の料理のセットが大々的に売られていることから、少なくとも田舎では、親族が集まってお盆の行事をするという習慣は、まだ残っていると思われるが、次第に減少していることは確かであろう。

理由はいろいろあるだろうが、一つには、多くの人にとって、先祖や子孫との一体感を感じる必要がなくなったということがあるだろう。
以前書いたように、現在の日本では50歳未満の人の死亡率は、ゼロに近い。自分や同世代の人が死ぬということに実感が持てない状況では、先祖や子孫との一体感など不要なのではないだろうか。
また、このような一体感を求める感情が、非常に漠然としたもので、合理的な説明がしがたいということもあるだろう。
現代の日本社会では、合理性が重視される。合理的な(利益、欲求に基づく、法に基づく、あるいは政治的な)理由の説明できない行為は、どうしても軽視されがちになるだろう。

だが、高齢者にとっては、事情は異なるようだ。
先日、ある高齢の知人と話している際に、家での仏の供養の話題が出た。
彼は、若い頃に、彼の親が毎日仏壇にご飯を上げていたことを良く覚えていると言った。まだ中年期までの彼は、そのようなことには全く関心がなかった。
ところが、親の死後は、自然と彼自身が、毎日朝早く起きて、仏壇へのお供えを欠かさず行なうようになったそうである。
なぜそのようなことをするか、彼自身にも上手く説明は出来ないようであった。

家系図調べに凝る人が高齢者に多いのと同様、先祖供養に熱心なのも高齢者である。
先祖供養という宗教的行為を行なう上においても、死をある程度現実の問題として身近に感じることが重要なのではなかろうか。
(つづく)


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