心・脳・機械(30)脳で心を説明するために必要なこと

いよいよこのシリーズも30回を迎えたので、一応今回で締めにさせていただきます。

最後なので、今後「心は脳で説明できる」と言い切れるようになるまでには何が必要か、思いつくことを書いてみようと思う。
私がとくに大切だと思うことは2つ。

(1)特に大脳皮質の各領域内で、どのような情報処理が行われているか、言い換えると、局所回路の仕組みがわかること。
(2)「人格」とは何か、脳の仕組みとして語れるようになること。

まず(1)について。
大脳皮質の各領域の機能――たとえば前頭葉の46野が作業記憶に関わっているとか、腹側運動前野吻側部が動作(特に手による物体操作)の理解と実行に関わっているとか―ーに関する知見はずいぶん溜まっているし、腹側運動前野吻側部と頭頂葉AIP野との間には強い神経連絡があるなど、領域間の神経連絡についても、だいぶ研究し尽くされた感がある。
しかし、各領域の中で、どんな回路があって、どんな情報処理が行われているかについての研究は、まだ発展途上である。これは、コンピュータに例えると、パソコンの箱を開けて、「これがマザーボード、これがメモリーカード、これがグラフィックボード、これがPCIボード…」という説明はできるが、それぞれのボード、カードの中身の回路についてはわからない、というような状態だ。
こういう各領域内の回路のことを局所回路という。局所回路については、もちろんこれまでも研究されていたのだが、狭い領域に混在する様々な種類の細胞を見分けて、それぞれの機能を明らかにするのはなかなか難しかった。だが、2000年以降、遺伝子操作技術やウイルスを使った遺伝子導入技術が急速に発展し、特定の種類の細胞を可視化したり、その活動を制御したりすることができるようになった。こういった技術で、現在研究は急速に進んでいるようだ。このまま行けば、私が生きている間には、局所回路の問題はほぼ解決してしまうだろう。いや、10年以内かもしれない。

(2)の人格の問題はもっと難しそうだ。私たちは皆さまざまな感情を持ち、さまざまな欲求や意思を持ち、そのうちのいくつかは矛盾し、対立している。昔「やせたーい。でも食べたーい」というコマーシャルがあったが、そんなことは日常茶飯事で、「頑張って働くぞ。でもちょっとサボろうか。」とか、「ホームレスの人たちはかわいそうだ。でも、近くには寄らないでほしい。」とか、いつも矛盾だらけだ。そんなに矛盾だらけの心なのに、とりあえず一人の人格としてまとまりを保っている。
その、個々の感情、思考、意思決定などについての脳内機構は、それなりにわかってきている。(実験で得られた結論を現実にどれだけ適用できるか、という問題は常にあるが。)だが、それらを一つの人格にまとめるというのはどういうことなのだろうか? 最近あまり聞かないが、二重人格という現象もある。一人の人間の中に人格が複数あり、それぞれに意思が違い、アクセスできる記憶内容さえ違っているということらしい。人格とはなんだのだろう? 脳の同期活動、デフォルトモードネットワークとかで説明できるのだろうか? どうアプローチすれば良いのかすらわからない、難しい問題である。

というわけで、神経科学者が「心のことは、脳で全部説明できます」と胸を張って言えるようになるまでには、まだまだだいぶ時間がかかりそうである。

最後に、ちょっと蛇足ではあるが一応付け加えておくと、脳で心が説明できるということ、すなわち心を生み出す脳の仕組みがわかるということと、特定の個人の心がわかるということは全く別物である。それは、日本語が読めることと、あなたの日記の中身が読めることぐらい違う。もしヒトの思考をある程度まで読み取ることが理論的に可能になったとしても、そのためには、脳の中に数百本の電極を埋め込まなければならないだろう。fMRIや脳波では、解像度が低すぎる。それも、技術が未発達だから解像度が低いのではなく、今以上の解像度を出すことが原理的にできないのだ。だから、「脳研究が進歩すると、知らないうちに私の考えていることが読まれてしまうんじゃないか」などという心配はご無用である。まあ、効果の高い自白剤くらいはできるかもしれないけれど。(それも怖いなあ。)

といったところで、とりあえずこれで「心・脳・機械」は完結です。これまでお付き合いありがとうございました。しばらく連載をお休みさせていただきます。また何か思いつけば、「心・脳・機械」第2弾を書くかもしれません。その時はよろしくお願いいたします。著者敬白

(by みやち)

ご愛読ありがとうございました。「心・脳・機械」は全30回でしたが、みやちさんの「あてのない旅」は全247回(!)を数えます。短期の休載はありましたが長期(かもしれない)休載は初めてです。みやちさん、本当にお疲れさまでした。そしてありがとうございました。またホテル暴風雨でお会いできる日を楽しみにしております。――ホテル暴風雨 総支配人テンペスト
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