たましいのこと

これまで私は、先祖の霊を祭る意義についてや、「たましい」「霊」という名で呼ばれるものと私たちの関わりについて、いろいろなことを書いてきたが、「たましい」「霊」とは何なのだろうか。そもそも「たましい」は存在するのか?

たましいの存在というのは、非常に微妙な問題である。「存在する」と言えば、非科学的だと人から笑われるだろうし、「存在しない」と言えば、人非人扱いされかねない。そういう問いに対しては、答えないのが賢い態度である。だが、私としては、宗教についての議論を始めてしまった以上、たましいの話を避けて通るわけにはいかないだろう。

私は、たましいとは、人の行動様式、思考様式、経験など、その人を他者と区別する属性についての記憶であると考えたい。「記憶」ではなく、「認知」という言葉を使う方がより正確かとも思うが、「記憶」と言ってもほぼ間違いは無いし、その方がわかりやすいと思う。

私は、私自身の行動パターン、普段の思考の癖、さっき電車の中で見た人の姿、昨日の夕食で食べたもの、子供のときに見たテレビ番組など、私個人についての様々な記憶をもっている。また、私の友人たちは、私が彼らの前でしたこと、私の口癖、私のよく着る服など、私個人に関する様々な記憶をもっている。

私が大学生のときに家庭教師をした教え子は、たぶん私が当時言ったこと、やったことをいくつかは覚えているだろう。私が2ヶ月前に電話で話した町役場の住民課の人だって、ひょっとしたら私の声を覚えているかもしれない。
そういった、私に関わったたくさんの人たちが持っている、私個人についての記憶の総体が、私のたましいであるという考え方である。

たましいと命というのは、何となく似た感じのするものであるが、この考え方をすれば、たましいと命はまったくの別物である。命とは、私の生命活動であり、私のからだの細胞が活動を停止した時点で命はなくなる。(法的には、心臓の拍動が停止した時点で死亡したことになるはずである。)だが、たましいは私が死んでも、私に関する何かを覚えている人がいる限り、存在し続ける。

何となくこじつけに聞こえるかもしれないが、この考え方をすると、たましい、霊魂に関するさまざまな言説、風習(多くは迷信、あるいは古くさいしきたりと考えられている)に説明がつくと思うのだ。

続きは、次回に。


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