ピンピンコロリは良い死に方である。このことには、ほとんどの人が同意してくれるだろう。第一に、本人から見れば、長期間病気で苦しむこともなく、認知能力の低下で不安な日々を過ごすこともなく一生を終わることができる。
ジグムント・フロイトは晩年、上顎がんを患ったにもかかわらずモルヒネを拒否し、敢えて何年にも渡って痛みと戦い続けたそうであるが、このような壮絶な最期を希望する人はあまりいないだろう。
第二に、家族からすれば、ピンピンコロリで逝ってもらえれば、長期間介護、看護のために時間とエネルギーを消耗することがない。介護離職、それにともなう貧困、介護疲れによる鬱病、自殺、心中などは、最近の日本社会の大きな問題である。
このような家族の負担を軽減しようとすれば、社会(行政)が負担を引き受けなければならないが、介護、医療の費用が国や地方自治体の財政を圧迫していることは、周知の事実である。従って、ピンピンコロリは、本人にとっても、家族にとっても、社会にとっても望ましい死に方である。これはほぼ常識と言っても良いだろう。
だが、ここで少々常識に反する考え方を提起してみたい。ピンピンコロリは、言い方を変えれば突然死である。家族からすれば、元気なはずの家族の一員を、ある日突然失うことである。その喪失感はどれほどだろうか。
「孝行をしたいときに親はなし」と言うことわざがあるが、年寄りにピンピンコロリで死なれると、それまで自分のことで忙しくて親と疎遠になっていた子供たちがある種の罪悪感を覚えることもあるのではないだろうか。
高齢者へのアンケートで「子供に迷惑をかけたくない」と考える人多いと、新聞やテレビニュースで報道していたが、老いた親に「迷惑をかけられる」ことで、子の世代は「十分に世話をした」と納得して、親を送ることができるのではないか。
また死ぬ本人にとっても、病気にかかり、体が不自由になることで、自分の死に備えることが出来るのではないだろうか。会っておきたい人に会い、処分したい物を処分する。そういった、現実的な準備もできるだろう。また、「死とは何か」、「自分の人生とは何だったのか」といった、宗教的、哲学的な思索を行なうことも、重要かもしれない。
むろんこれは想像である。実際のところは、未だ自分の死を実感していない私にはわからない。だが、以前(第9回、第13回)にも触れたように、ヒトは他の動物と違い、自分が死ぬということを知ってしまった。このような知識は、大きな不安の源となりえる。若いうちは無視できても、高齢になると、不安は無意識のうちに大きくなるのではないか。その不安と折り合いを付けるには、自分の死に意識的に取り組む必要があるのではないだろうか。全く健康でピンピンしていながら、自分の死について本気で考えるのは、難しいように思える。
以上、ピンピンコロリについて、二つの両極端の考え方を述べた。前者は常識的で合理的、後者はやや非常識で、いくぶん不合理な考え方だ。だが、どちらが正しいかとか、どちらが「より正しい」かとか、二者択一的な考え方はしたくない。多分どちらにも一理あるのだ。ただ私としては、非常識な考え方にも一理あるのだということを強調しておきたい。
【後記】
今回書く内容を頭の中でまとめた後、実際に書き始める前に、ついネットで「ピンピンコロリ」を検索してしまった。案の定、私とよく似たことを言っている人がいた。なんと、みうらじゅん氏だった。まあ、そういうこともあるだろう。
http://news.mynavi.jp/news/2013/03/30/070/