孔子曰く、天下道(みち)有れば、則ち礼楽(れいがく)征伐(せいばつ)は天子より出ず。天下道無ければ、則ち礼楽征伐は、諸侯より出ず。諸侯より出ずれば、蓋(けだ)し十世失わざる希なり。大夫より出ずれば、五世失われざる希なり。陪臣、国命を執れば、三世失わざる希なり。天下道有れば、則ち政大夫に在らず。天下道有れば、則ち庶人(しょじん)議せず。(李氏 二)
――――孔子が言われた。天下に道義が行われていれば、規範(礼楽)や秩序(征伐)は天子(皇帝)が主導する。道義が乱れると、規範や秩序を諸侯が決めるようになる。諸侯が決めるようになると、その王朝が十代も続く可能性は少ない。諸侯の下の大夫が主導するようになれば、王朝は五代も続くのは難しい。大夫の家臣(陪臣)が主導するようになると、三代続くことも難しい。天下に道義が行われているときは、政治の決定権は大夫にはない。道義が行われていれば、庶民が政治について議論することはない。――――
今回は、孔子の主張の内容については気にしないでいただきたい。今の民主主義の世の中には全く当てはまらない内容である。だからと言って彼を非難しないでいただきたい。彼は封建制の時代に生まれ、封建制度の中の政治家として、世の中を「どげんかせんといかん」、と頑張った人である。彼に民主主義の発想を求めても無理なのである。もっとも、民主国家では国民が君主であると考えて、この節の「天子」を「国民」に置き換えれば、なんとか現代にも通用しそうであるが、その場合「諸侯」「大夫」「陪臣」をどう置き換えるか、悩ましいところである。
いやしかし、今回注目したいのはそこではない。
注目したいのは、孔子の時間感覚である。「蓋し十世失わざるは希なり」と言っているということは、今から十代も続かない王朝はダメである、ということだ。ましてや三代先で終わるようではダメダメなのだ。道が行われないと、十代先までに王朝が終わってしまう。そうなっては大変だから、今、どげんかせんといかん、ということだ。彼の倫理観は、十世代先の人々に対して真面目に責任を感じているのだ。現代の我々からすると、気が長いというか気が遠くなるというか、信じられない感覚である。
が、ひょっとすると、数十年から百年くらい前の日本人にとっては、それほど違和感はなかったのかもしれない。家を存続させることが最重要で、そのためには個人の自由や権利が制限されても当然と考えられていた時代。その頃の人たちからすれば、(家が)「十世失わざるは希なり」という言葉は、相当な重みを持って受け取られたのではないだろうか。
まあ、家のために個人の自由が奪われるような社会に生きたくはないが、地球規模の問題について考えるときは、こういう発想もある程度ある方が良いのではないだろうか。
「二酸化炭素削減せざれば、蓋し十世失わざるは希なり」とか。垂れ幕にして、経産省や環境省の庁舎の壁から垂らしておいてはどうだろう。
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