子曰く、由の瑟(しつ)、奚(なん)為(す)れぞ丘(きゅう)の門に於いてする、と。門人子路を敬せず。子曰く、由や、堂に昇れり。未だ室に入らず、と。
(先進 十五)
――――孔子が言った。由君(子路)の瑟(大きな琴)は、(あまりに下手だ。)あれでどうして私の門下としてやっていけるだろうか。(この言葉が広がり)門人たちは子路を尊敬しなくなった。(それを見て)孔子は言った。「由の瑟は、建物には入っている(一定のレベルには達している)のだ。奥の部屋に入れないでいる(最高レベルに達していない)だけなのだ。」――――
孔子の弟子は、多い時には三千人もいたと伝えられる。三千人の集団となれば、一つの社会である。全員が孔子から直接指導を受けるわけではなく、弟子の弟子、すなわち孫弟子もいた。たとえば、なにわぶし論語論の第5回に登場した子禽(しきん)は子貢(しこう)の弟子である。
直弟子の中には、すでに官僚としてかなりの高い地位についている者もいる。一門の人間関係も、相当に複雑だったであろう。いや、三千人の社会となれば、もはや「人間関係」と言うより、「政治力学」と呼ぶ方がふさわしいかもしれない。
その社会の中での子路の地位はどんなものだったか。論語の中ではとかくおバカなエピソードばかり取り上げられている子路だが、実は「孔門十哲」と呼ばれる孔子の弟子のトップ十人に入っているのである。エライ人なのだ。Time誌の「今年の百人」なんかよりずっとエライのである。
しかし、論語の数々のエピソードが示すように、あまりエリートくさくない人だったようだ。秀才ではないし、直情径行と言うか、豪快と言うか。ザビ家の兄弟で言えばギレンじゃなくてドズル・ザビみたいなイメージである。
孔子の門弟が三千人もいれば、勉強は良く出来るのに、出世できずにくさっている者もいただろう。そういう連中からすれば、「おバカなくせに大先生のお気に入り」の子路は、面白くない存在だったろう。そんな中で、孔子が子路を「ありゃだめだ」と評したのだ。孔子本人は軽い冗談のつもりでも、不満を持つ弟子たちから見れば、「それ見たことか。やっぱり子路はダメだ」と言うことになったのだろう。慌てた孔子は火消しに回った。
弟子が多いと、苦労も多いようである。
(by みやち)
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