私はこれまで、死後のたましいについて物語ること、「私」の存在の永遠性を保証することが、宗教の重要な役割であると主張してきた。
だが、それだけが宗教の役割であると言っているわけではない。宗教にはさまざまな役割、機能があるというのが、常識的な考え方だろうし、私もそれに賛成である。
倫理・道徳の枠組みを与える、というのも、宗教の重要な機能の一つであろう。仏教では慈悲が説かれるし、キリスト教では愛が説かれる。(ただし、ユダヤ・キリスト教においては嘘をつかないこと、約束を守ることがその倫理の根本にあると思われる。)
では、日本古来の宗教である神道にはどのような倫理観があるのだろうか。たぶん、そう尋ねられてもすぐには思いつかない人が多いのではないだろうか。
キリスト教の神父や仏教のお坊さんが説教をする姿はすぐに思い浮かぶし、その内容もある程度想像できるが、神主さんの説教というのは、なかなか想像するのが難しい。
私は家が神道なので、葬式などの折に神主さんの話を聞いたことも何度かあるが、「ご先祖を大切にしましょう」といったことくらいしか記憶に無い。
では、神道には倫理・道徳についての教えは無いのだろうか。
私は、「祟りを恐れる」ということが、重要な神道の倫理ではないかと考える。
仏教やキリスト教が、慈悲、隣人愛、正直さと言った立派な道徳を教えているときに、「祟りを恐れる」が倫理の根本とは、あまりに情けない、と思われるかもしれない。
だが、私はむしろ、とくに現代においては「祟りを恐れる」という倫理観も重要になっているのではないかと思っている。
神道には、「祟り」についての話が多い。そして、祟りの話には、必ずその祟りを鎮めるための祭り(祀り)の話がついてくる。菅原道真や平将門は、多数派に追いつめられ、非業の死を遂げた後に、その祟りを鎮めるために神として祀られた。
これら「祟り−祀り」のエピソードに共通するのは、「我ら」と「彼ら」(あるいは「彼」)の利害が対立し「我ら」が勝利するが、「彼ら」が死後に祟る。そして「我ら」が「彼ら」を祀り、尊崇することによって祟りを鎮めるというストーリーである。
山や海の神の祟りと言う話も日本各地にあるが、これも、例えば山の神であれば、人が山の神の持ち物である木を伐採したり動物を狩ったりするが、技術力によって自然の力に打ち勝ち、好き放題をすると山の神の怒りに触れて祟りにあう。
そこで、山の神の怒りを鎮めるために祭をしたり、山の神の権利を守る(というのも変な言い方だが)ための禁忌を作ったりする、と言う話になる。
現実の社会では、人と人(あるいは集団と集団)の間の利害の対立ということは避けられない。そのときに、我らが正しいのか彼らが正しいのか、事実に基づいて、事の理非を明らかにすることが大切である。
だが、科学技術上の問題と違い、人間関係や政治上の問題では、何が正しいのかよくわからないことが多い。よくわからなくても何らかの形で(例えば多数決で)白黒を付けなければならないのが世の常である。
その際「正しい」側の人間が、それでも相手を徹底的にやっつけず、「祟られない程度にしておく」というバランス感覚を持つことも、重要なのではなかろうか。
そう考えると、「祟りを恐れる」ということが、日本人の誇るべき倫理観ではないかと思えてくる。もちろん、祟りを恐れてばかりで「正しさ」の追求を忘れると、それはそれで困ったことになるのだが。