前回は、思わず脱線してトランプ問題について書いてしまった。そういえば、今年公開された映画「シン・ゴジラ」は、「誰もがコメントしたくなる映画」と言われていたが、そういう意味ではトランプ氏はゴジラに似ているのかもしれない。
さて、もう1回だけ脱線を続ける。もっとも、「倫理の枠組みを与えることが宗教の重要な機能の一つである」という考え方からすれば、あながち脱線とも言えないのだが。
欧米で移民に対する排斥運動が起こっているのと同じように、近年日本でも、ヘイトスピーチなどの、特定の外国人に対する攻撃が問題になっている。だが、私にはこれらの問題は、欧米と同じような差別の問題ではないように思われる。
日本の社会においては、欧米と比べると、人種差別の感情に対する抑圧はまだそれほど強力ではない。
たとえばアメリカであれば、キング牧師に象徴される人種差別との戦いの長い歴史がある。イギリスを含む欧州でも、博愛主義の実践として多数の移民を受け入れていることもあり、人種間の平等については、相当に気を使ってきたようだ。おそらくは神の下の平等、隣人愛というキリスト教の伝統的倫理観が背景にあるのだろう。
今日、移民に対する不満が爆発し始めていることには、これまで人種、民族による差別を徹底的に否定してきたことへの反動という意味が強いのではなかろうか。
一方日本では、現在は相当数の外国人がいるにもかかわらず、人種差別、外国人差別が全国レベルで大きな社会問題として取り上げられたことはほとんどなかったと言っていいだろう。在日朝鮮・韓国人に対する差別は昔からあったと思うが、それが、例えば男女差別と同列の大きな問題として扱われたことはない。
さて、人種差別の感情に対する抑圧が欧米に比べて弱いとしたら、逆に日本でとくに強く抑圧されているような感情はあるだろうか。
性欲に対する抑圧は、かなり強いと思うし、それはそれでさまざまな問題と関連しているのだろうが、もう一つ、日本で強く抑圧されていると思われるのが、暴力性・攻撃性の感情である。アグレッションと呼ぶべきかもしれない。自分の欲求が他者によって妨げられていると感じたとき、相手に対して攻撃したいというのは、人間の持つ自然な感情だろう。
もちろん、無分別に人を攻撃していては社会が成り立たない。だが、あまりに抑圧が強くなれば、いつかアグレッションが暴走し、病的な行動を引き起こすだろう。
第二次大戦以後、日本は憲法によって、戦争という国家の暴力を否定した。学校でも平和教育が重視され、暴力は悪となった。そして、暴力につながる危険のあるアグレッションも抑圧されているのではないか。
抑圧されたアグレッションが、外交問題をきっかけとして、特定の国の人に向かって暴発しているのではないか。学校でのいじめや、駅員に対する乗客の暴力、ネット上のいわゆる「炎上」の問題も、同じ観点から考えてみてはどうだろうか。