「子曰く、不仁者は以って久しく約に処らしむ可からず。以って長く楽に処らしむ可からず。仁者は仁に安んじ、知者は仁を利す。」 (里仁 二)
人間のできていない者に、長い間苦しい生活をさせてはいけない。(悪事に走るから。)かといって長い間豊かな暮らしをさせてもいけない。(堕落するから。)
ではどうすれば良いのだろうか。半年楽をさせて、半年苦労をさせろとでも言うのか? 「○○可からず」が並んでいるから、具体的な教示かと思うとそうでもなさそうだ。要するに、「仁のねえ奴はどうしようもねえなあ。苦しくなれば悪さをするし、楽をすりゃ堕落する。付ける薬がねえや」と、ぼやいているのである。
想像だが、具体的に誰かについて話している折に出た言葉ではないだろうか。
さて、不仁者についてひとしきりぼやくと、次は仁のある者について述べている。
以前も触れたが、孔子は人の良き在り方を「仁者」と「知者」に分ける。だが、今回の文章では明らかに、仁者と知者の両者を不仁者の対極にある存在として述べているから、両者ともに、仁(仁徳、人間性)を身につけた者ということになるだろう。
ある程度の仁を身につけた人たちの中でも、仁一本槍の人と、仁はそこそこでも知(知性)を身につけた人がいる。(孔子は仁を伴わない知は評価しない。仁がなくて知だけの人を「小人(しょうじん)」と呼ぶこともある。)
では、知者と仁者はどのように違うか。「仁者は仁に安んじ、知者は仁を利す。」すなわち、仁者は己の境遇に満足して安らかに生き、知者は己の境遇を利用して良いことをする。「仁に安んじ」の「仁」は、境遇、場所という意味である。また別の場合には、「仁」は人柄という意味でも使われる(たとえば里仁七)。同じ字が様々な意味で使われるから、ややこしい。
さて、仁者は安んじているだけで、知者は仁を利するわけだから、知者の方が良いようだが、孔子はあくまでも仁者を知者と対等に扱っている。いや、上で書いたように、知だけで仁のない人を小人と呼んで低く見ているから、仁を知よりも上に扱っていると言って良いだろう。
儒教は、道徳の実践に重きを置き、道教とは対立しているが、「仁者は仁に安んじ」、あるいは「仁者は壽をもてす」(第12回参照)といった生き方を高く評価する孔子の考え方は、道教の思想にも近いと思うのだが、どうだろう。
論敵の主張にも一理あるな、と思うことはよくあることだろうが、それでも自派の優位性を示していかなければならないのだから、百家争鳴の時代の君子は辛いのである。
☆ ☆ ☆ ☆
※「なにわぶし論語論」へのご意見ご感想をお待ちしております。こちらから。