子曰く 之(これ)を知る者は、之を好む者に如(し)かず。之を好む者は、之を楽しむ者に如かず、と。(雍也 二十)
――――ある一つのことを努力して学び、よく知っている者は、(それはそれで偉いのだけれど)、それを好んでやっている者にはかなわない。好んでやっている者も、それを楽しんでいる者にはかなわない。――――
もし私が、論語の中で好きな言葉を3つ挙げろと言われたら、一つはこれだろう。
孔子の言う「之(これ)」は、おそらく孔子の教える古典、倫理、儀礼などの学問のことだろうが、応用範囲の広い言葉だと思う。
現代の学校の勉強にしろ、スポーツにしろ、努力していればそれなりに成果は上がるだろう。だが、義務的にやっているのでは、好んでやっている奴にはかなわない。好んでやっている奴でも、それを「楽しんでいる」奴にはかなわない。
さて、「好む」と「楽しむ」はどう違うのだろうか?
「好」、「楽」という漢字は、形容詞(形容動詞?)として使えば、「すき」と「たのしい」になる。動詞として使えば「このむ」、「たのしむ」になる。
形容詞的に使うときと動詞的に使うときでは、若干ニュアンスが異なるようだ。ここは原文に即して、動詞的に使っておこう。私の感じだと、「好む」と「楽しむ」は英語の “like” と “enjoy” でぴったりと置き換えることができるような気がする。
「好む」と「楽しむ」。色々な考え方があるだろうが、両者の違いを能動性の違いと考えてみたらどうだろうか。
子供が学校で勉強をするとき、先生が話し上手で、色々面白い話を織り交ぜながら授業をしてくれたり、頑張って勉強している姿を見たおばあちゃんが褒めてくれたりすると、その子は勉強を好むようになるだろう。
だがこの状態は、担任がつまらない先生に変わったり、おばあちゃんの機嫌が悪くなって褒めてくれなくなったりすると、あっという間に変わってしまうだろう。
もしその子が、勉強を「楽しむ」ようになったら、先生がつまらなかろうと、おばあちゃんの機嫌が悪かろうと、変わらずに勉強するだろう。
逆に言うと、大人が努力すれば、子供が勉強を「好む」ようにすることはできる。だが勉強を「楽しむ」ようにしむけることは、できないのではないだろうか。
論語の中にも、「憤せずんば啓かず」の言葉がある(述而八)。「発憤しないと教えてやらないよ」と言う意味だが、要するに、やる気を出す出さないは弟子まかせということだ。
教師として名高い孔子でも、弟子が学問を楽しむようにする秘策は持ち合わせていなかったようだ。教師は辛いのである。
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