【 魔の本 】ヴォイニッチ写本(4/最終回)

「さて、古城内を散策しようか」という気分になった。世界一の奇書を机上に残してここを去るのは誠に心残りではあったが、いつまでも本を眺めているわけにもいかない。「明日また来ようか」と思ってみたり「いま店を出たら、もう二度とこの本を見ることはできないかも」と思ってみたり、心は千々に乱れたが、「……おいおい。この本を見るためにわざわざこんな遠くの国に来たのじゃないだろ?」と思い直した。喫茶店を出ることにした。

いまだ中世の空気が暗闇によどんでいるような、閑散として人の気配がない古城内をあちこち徘徊するように歩いた。なんとなく予想していたことだが、なにを見ても謎に満ちた奇書の絵や文字がチラチラと脳裏に浮かんでくる。「魅力ありすぎだな、あの本は」と苦笑する思いだった。「まあいいさ」と開き直ることにした。「気ままなひとり旅だ。今日は存分に仮説を立てながら徘徊しようじゃないか」……そう思うことにした。作家的で贅沢な時間の使い方を存分に堪能している気分になった。

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あるシーンがふと浮かんだ。
山間の修道院に忽然と現れたひとりの旅人。彼はひどい火傷を負ったまま歩いてきたらしく、門の前でついに倒れた。修道院は大騒ぎとなった。旅人はすぐに若い修道士に背負われて院内に運ばれ、応急手当を受けた。

男の体を見た修道士たちは、衝撃を受けてお互いの顔を見た。男の皮膚は淡い緑色で、表面はヘビのようにキメ細かなウロコでおおわれていた。修道士たちは数歩下がって十字を切った。
「これは呪いだ!」「ヘビに呪われた男だ!」
彼らは口々に叫んだ。それを見た修道院長が片手を上げてざわめきを制した。
「たとえそうだとしても」と彼は穏やかに諭した。「……神の御子にちがいはない」

手厚い看護を受けて、旅人は一命をとりとめた。
翌日の夕方に男は目を開いたが、その目を見た修道士たちはまたしてもざわめいた。男の目は明らかに人の目ではなかった。しかし年老いた修道院長は恐れなかった。彼は旅人の目に穏やかで知的な光が宿っていることを見抜いていた。言葉は通じなくとも、たとえこの地上の人でなくとも、「この男もまた神の御子」という揺るぎない信念に変わりはなかった。修道院長は穏やかな笑みを浮かべて旅人の額に手を置いた。
「心配することはない。安静にしていなさい」心で念じると、男はかすかにうなづいた。

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旅人は次第に回復したが、火傷の後遺症は全身に及んでいた。長期にわたる過酷なリハビリが必要なことは、誰の目にも明らかだった。このヘビ男をどうするか。修道院では全員が集合する夕食の席で、数夜にわたる議論となった。しかし結論は出なかった。ほぼ全員の意見が出尽くした頃を見計らい、議長役の修道院長が口を開いた。
「みなの許しを得ることができるならば、この男のことは、神の御心と私にまかせていただきたい」
異論を唱える者はひとりもいなかった。修道院長は当分のあいだ旅人をかくまうことに決め、修道士全員にこの異邦人の滞在が外部に漏れないように、固く口止めさせた。

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旅人は驚異的な回復力を持っていた。彼は遠慮がちに言葉を発したが、やはりというか、いまだかつて聞いたことがない未知の言語だった。修道院長は長年にわたりラテン語を研究してきた文書館長を呼び、旅人の世話を頼んだ。
「推測でいい」と修道院長は言った。「あの男が伝えようとしていることがなにかわかれば、すぐに私に知らせてほしい」
翌日、文書館長が飛んできた。
「あの男は写本の道具を使いたがっています」
「それは興味深い」と修道院長は喜んだ。「自由に使わせてやりなさい」

三日後、修道院長と文書館長はお互いの顔を見ていた。文書館では旅人が椅子に腰掛けており、その周囲には、40枚ほどの羊皮紙が床に並んでいた。みな植物が描かれており、その絵に添うようにしてびっしりと記入された文字が整然と並んでいた。

「この三日間で、これを全部描いたというのか?」
「そうです」と文書館長は言った。「しかもなにも見ないで描いたのです」
修道院長は床に手を伸ばして1枚を取り上げ、仔細に眺めた。
「見たこともない奇妙な植物だ。この文字は植物の説明だろうか?」
「私も最初はそう思いました。……しかしどうやら違うようです」
「説明ではないというのか。……ではなにが書いてあるというのかね?」
「これは私の推測ですが……」

文書館長は驚くべき推測を披露した。ここに書かれた内容は、すべてこれら植物がつぶやいた言葉だというのだ。驚きのあまり、さすがの修道院長もしばし沈黙した。
「文書館長。……この植物たちはつぶやくというのか?」
「はい。この男は……どうやらそれを研究してきたようです」
文書館長は1枚の絵を取り上げて旅人に見せた。すると男は年老いた貴婦人のように細く高い声で、なにかをクチャクチャとしゃべった。文書館長は別の絵を見せた。すると今度は老人のように低くゆったりとした声で、歌うような声を発した。
「うーむ」
修道院長はうめいた。

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気がつくと城内に林立する柱のひとつに寄りかかり、一心不乱に物語を綴っていた。
ふと浮かんだシーン。そこから動き始めたストーリー。小説が好きで、レイモンド・カーヴァーから影響を受けた短編小説を書いたこともある。しかし旅行先でこれほど夢中になって物語を綴ったことはなかった。
「さて、謎の天体図と入浴図……これはどう解く?」
手帳とペンを胸ポケットにしまった。天体図はこれら特異な植物を採集した星の位置を示しているのではないだろうか。では女性たちの入浴図は?
みな裸で、妙齢で、湯につかっている女たち。

ふと旅人の顔が浮かんだ。彼はニヤッと笑みを浮かべていた。
「……そりゃ一番脂の乗った、食べごろと言えば?」
「……軽く湯に通すのです。ただの湯ではない。私が調合した特殊な薬湯です。するとさらに絶品の味になります」
あわてて首を振った。そんな馬鹿な。そんなひどい理由にしたくない。もっとこう、ロマンティックな物語にしたい。
「……せっかく救っていただいたのだ。どうせ私はもう帰ることができない。先も長くはない。ここはひとつ謎めいた遺産をあなた方に残しておきましょう。あなた方がこれを解けるレベルになったら、その解読により私の星と交信できるようにしておきましょう」

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城外に出て深呼吸した。眼下の街を眺めると、ちらほらと灯がともり始めたようだった。異国の居酒屋でこのつづきを考えるとしよう。

……………………………………    【 完 】

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