【 魔の本 】ヴォイニッチ写本(3)

コーヒーが運ばれて来た。このような時、ヨーロッパの喫茶店では、日本のように「それが当然」といった態度をとってはいけない。あなたもそこは心得ている。
「メルシー、ブークー」
軽く礼を述べて微笑した。一見して「大学生のアルバイトかな」と思われるウェイトレスはかつてのヘップバーンのようにスレンダーで短髪の美人だったが、知的で魅力的な微笑を返して去って行った。この奇妙な本をチラッと見たようだったが、特になにも言わなかった。

会話できないというじつにもどかしい状況だったが、海外旅行に慣れているので、そんな時はむしろ想像力をたくましく働かせる好機と考えている。
「……これは客の忘れ物だろうか?」
なにはともあれ「もう少しこの本を眺める時間はありそうだ」とうれしく思った。

…………………………

それにしても奇妙な本だった。見たこともない植物図に添えるようにして、見たこともない文字列が並んでいた。植物図は綺麗に着彩されているが、写実というよりは「大胆で説明的な着彩」といった感じでもある。芸術性はほとんど感じられない。あくまでも図解的な雰囲気なのだが、上手なのかそうでもないのかよくわからない不思議なテイストだ。

とはいえ、かなり手慣れた描き手であることはまちがいない。下描きの線は見当たらず、輪郭線は迷いなく確信に満ちた力強い線がかなりの速度で走っている。着彩にもほとんど迷いがなくサラッと一気に塗られている。
「そうだ彼にこれを見せたら、なにか分かるかもしれないぞ」
スマホでそのページを撮影して友人に送った。

じつにすばやい反応が返ってきた。かなり驚いたようだ。医科大学の研究員で薬草研究チームにも在籍している友人であり、「彼ならこの奇妙な植物を知っているかも」と見当をつけたのだ。ところが彼は「この奇妙な植物」どころか、「この奇妙な本」自体を知っていた。
「我々研究者の間でも、それは有名な本でね」と前置きして簡単な説明があり、「ウィキペディアで〈ヴォイニッチ〉を参照されたし」とあった。
「たぶんその本は原寸コピーで作られた精巧なレプリカ版とか、そういうのだろう」という結論だった。熱烈なファンや研究者の間ではよく聞く話らしい。「すぐにでも飛んで行って自分の目で見たい」という気持ちがありありと伝わってきた。しかしそれは無理だ。

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「ふーん、そうなのか」
改めてネットの便利さを痛感しつつ、15分前とは全く異なる視線で再びその本を眺めることになった。それにしてもたった1ページの画像を送っただけで、目の前の本が「世界的に有名な謎だらけの本」という事実を知った衝撃は大きかった。
「なにもかも全然わからんとはねぇ。……いや大した本だ」
まさに痛快。賞賛の気分もこめて、もう一度、最初からじっくりと全ページを眺めて楽しむことにした。

じつに熱心に解説している雰囲気の植物図に続き、いきなりずらずらと連続で出てきたのが円形天体図だった。明らかに話題が変わったのだ。円形に並ぶ裸の女性たち。学術的・博物学的な雰囲気の植物図ページに比べて、ぐっとミステリアスなムードだ。……とはいえ、今度はちゃんと判別できる物が中央に描いてある。ヤギ、ウシ、サカナ。
「おっ、それとわかる動物がちゃんとあるじゃないか。ここから解読できないのか?」

…………………

ところが期待してネットであれこれ調べてみると……円形中央の動物たちは「後の時代に描かれたことがほぼ確実」「元の図を理解して描いたとは考えづらい」などなど。思わず舌打ちしたくなるような事実が判明した。しかもそれらをヌキにして占星術の専門家が見ても、この天文図が示す意味は不明だと言う。
「……ったく、目次の紛失といい、追加の絵といい、後の時代の馬鹿者たちが謎をますます深めているとしか思えないな」

それにしても、この裸の女たち。みなドラム缶風呂のようなものにすっぽりと入っている。興味深いのは、それぞれのドラム缶に模様が付いている。さらに奇妙なのはそれぞれの女たちに星のようなものがくっつき、みなヒモでつながれて宙に浮いている。

思わず笑いながら「いったいなんだこれは?」とつぶやいた。また同時に、古今東西の学者や研究者たちが頭を抱えて悩んでいる様子を連想して、余計に笑いがこみ上げてきた。
「こうなると笑いとかユーモアの研究者たちにも研究してもらった方がいいんじゃないの?」

ガランとして人の気配がほとんどない喫茶店で、あなたは笑いを嚙み殺すようにしてクックッと笑った。この本の最大の魅力は、間違いなく「謎がひとつも解けない」という点だろう。106年もの間、「解読成功」の旗を掲げた学者や研究者たちがいったい何人出てきたことだろう。彼らはことごとく反論され、叩かれ、突っ込まれ、引っ込んでいったのだ。
「まるで解読成功者のモグラたたきだな」
そうつぶやいた瞬間に、「あっ」とあなたは悟った。
「もしかして……」
この本が生まれた動機を、垣間見たように思ったのだ。

……………………………………【 つづく/次回最終回 】

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