【 アキレスの怒り 】
9月9日に公開した魔談「ギリシア神話・絶世の美女ヘレネ(5)」に勇者アキレスが出てくる。この時の魔談では、「アキレス腱」の名で後世に名を残すことになったアキレスのエピソードを語った。
今回はそのアキレスがギリシア軍の高名な勇者として参加しながら、総大将であるアガメムノンと対立する話をしたい。
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さてギリシア軍がトロイと開戦して9年目、ギリシア軍兵士が疫病でバタバタと倒れて行く様子を見て、ついにアキレスが立ち上がった。彼はギリシア軍の王たちを集めて呼びかけた。
「なぜ我々はここにとどまって死ななければならないのか。戦いに死んだ者よりももっと多くの者が疫病で死んでいる。なぜ神々の怒りが我が軍の上にふりかかるのか。祭祀に聞こうではないか」(ギリシア神話・あかね書房)
ここに至って私は初めて「おおっ、この展開は面白い。じつに興味深い。ギリシア神話を紐解いた意義が少しは出てきたぞ」といった気分だ。魔談でも何度か語ってきたが、ギリシア神話は紀元前1500年前の話である。ところがその時代からざっと3400年も経過した1918年、第一次世界大戦末期、人類は全く同じ状況に直面している。「なぜ我々はここにとどまって死ななければならないのか。戦いに死んだ者よりももっと多くの者が疫病で死んでいる」……これを繰り返しているのだ。
トロイア戦争はなにしろ神話なので、いったい何人の戦死者・犠牲者を出したのかよくわからない。しかし神話によればアガメムノンが集めたギリシア軍の総勢は10万人、集めた軍船は1168隻だったという。軍勢の10万人というアバウトさに比べて軍船の数は妙に細かい数字だなぁと思うのだが、まあそれはともかく、軍勢のうち大半が戦死や疫病の犠牲になったとしても、7万人か8万人だろう。
そして3400年が経過。第一次世界大戦の犠牲者はざっと3700万人。異説もある。なにしろ戦争なので、各国とも戦死者の数を正確に公表するはずがない。あれこれ言って少なめに公表することは目に見えている。なので実際はそんなもんじゃないという説もある。
ともあれ、その半数あるいはそれ以上が疫病が死因だと言われている。少なく見積もって半数が疫病で死んだとしても、1850万人。トロイア戦争の7万人や8万人に比べてとんでもない数字だ。
人類は神話の時代から3400年も時代を経て、社会も大きく変化して、科学も飛躍的に進歩したと言われて、結局は戦争を起こし、戦場で疫病を蔓延させ、おびただしい数の犠牲者を出しているのだ。自分もその一員だとは思いつつ、救いがたい愚かさだ。
【 アガメムノンの譲歩 】
さて話を戻そう。
アキレスの前に出てきた祭祀は、アガメムノンに娘を奪われ、取り戻しに行ったが放り出され、頭に来ている。ここで大いにアガメムノンを大音声で非難するかと思いきや……
「なぜ神々の怒りが我々の上に下ったか、それをお話ししましょう。しかしあなたがたは、まず、私の味方になってくれなければ困る。なぜなら、これから私の言おうとすることは、アガメムノンには気にさわることなのだ」(ギリシア神話・あかね書房)
このあたり、さすがは祭祀と言うべきか、なかなかにしたたかですな。ここまで言われて「では聞くのはやめておきましょう」なんてことになるはずがない。案の定というか、引っこみのつかなくなったアキレスが保証する。
「話せ。私の生きているあいだは、誰もあなたを傷つけることはできない」(ギリシア神話・あかね書房)
かくして祭祀は娘を奪われたあげく追い返された怒りをぶちまけ、神殿でそれを訴えられた天上のアポロンが怒って疫病を撒き散らしたことを、アキレスたちに伝えた。
さてその集会を聞いたアガメムノンは大いに怒った。まさに人間も神も巻きこんだ怒りの連鎖。しかし疫病の原因がアポロンと知ったアガメムノンも、「それでも返さん」というわけにはいかない。このまま神を敵に回しておいてはまずい。そこで彼は言った。
「よろしい。クリュセーは返してやる。そのかわり、アキレスのところにいる捕虜の少女ブリュセイスを、私がもらおう」(ギリシア神話・あかね書房)
もう本当に、「呆れた」という言葉しか出てこない。こんな話をギリシアの小学生たちは「歴史」で聞いているのだろうか。
✻ ✻ ✻ つづく ✻ ✻ ✻