【 大広間 】
和一郎君と私は若い僧の後をついて行った。僧は山門で「こちらへ」と言ったきり、一言も口をきかなかった。
和一郎君はすでに何回かここに来て生活してきたのだから、どんな生活なのか大体のところは知っているのだろう。しかし彼はフォルクスワーゲンを見送ってからというもの、微妙に緊張した顔つきでなにも語らなかった。私は私で、もともと無口な少年であり、会話がないことは一向に平気だった。しかしこれから先、しかも10日間も、自分の生活がどうなるのかさっぱりわからないという不安は、じわじわと私の顔面から血の気を奪っていった。こんな思いをしながら山寺を歩いたことなど初めてだった。たぶん私は顔面蒼白状態で歩いていたのだろう。不思議なほど蒸し暑さを感じなかった。周囲の巨木から落ちてくる蝉の声も、どこか遠くの世界から聞こえてくるような気がしていた。
我々は山門をくぐってから大小の寺院を4つばかり通りすぎた。私は緊張と不安で山中に散在する寺院のたたずまいをキョロキョロと眺めながら和一郎君のすぐ後を歩いた。他の僧も観光客も全くいなかった。おそらくそこは観光客立入禁止のエリアだったのだろう。
僧はひときわ大きな寺院の中に入って行った。我々は靴を脱ぎ、渡り廊下を歩き、大広間に通された。じつに広い部屋だった。100畳はあっただろうかと記憶している。しかし当時の年齢(8歳)では自分の体が小さいので、とてつもなく広く感じたのかもしれない。
「ここでお待ちください」と言い残して僧は去って行った。かすかに微笑したようにも感じたのだが、彼はすぐに踵(きびす)をかえして部屋を出て行ったので、表情はよくわからなかった。和一郎君と私は大広間の真ん中に座った。彼は正座ではなくあぐらをかいたので、私もそれに習った。
はるか彼方に立派な仏壇があり、釈迦の木像が安置されていた。左右の大きな「ぼんぼり」が穏やかな黄色の光を放っていた。室内の明かりはそのぼんぼりだけであり全体に薄暗い大広間であったように記憶している。
しばらくすると、若い僧はもう一人の僧と一緒に大広間に来た。年配の僧だった。若い僧よりも立派な袈裟を着ていた。この僧は「終始笑顔を絶やさず」といった感じでニコニコしていたので、私はとりあえずホッとした。
「さあさあ、こちらに来なさい」と年配の僧は言い、我々を仏壇近くまで招いた。若い僧に命じて座布団を4枚用意させ、ゆったりと座った。年配の僧も若い僧も座布団に座ったのを見て、我々も座布団の上に正座した。
「かずくん、しばらくでしたな」と年配の僧が声をかけてきた。和一郎君はここでは「かずくん」と呼ばれているらしかった。
「はいっ!」と彼は元気に答え、「またよろしくお願いしますっ!」と言った。僧は笑顔でうなずき、次に私を見て名前を聞いてきた。
「れいくん」と彼は穏やかな笑顔で私に聞いてきた。
「……きみはどんなお坊さんになりたいのかな?」
私の驚きを察していただきたい。なにがなんだかわからない、というよりも「もしかして」といった疑惑やら想像やらが次々に頭に浮かんでは消えた。ここに来てここに座ったからには、お坊さんになるしかないのだろうか。しかしそんなつもりは全然なかった。
「……いいえ」と私は混乱しながら答えた。
「ぼくは……ぼくは、お坊さまには、なりません」
年配の僧と若い僧は顔を見合わせた。私のことがちゃんと伝わっていないようだった。若い僧はちょっと困ったような表情だったが、年配の僧は笑い始めた。
「そうかそうか。坊主にはならんか。……しかし坊主も悪くはないぞ。なあ、かずくん?」
和一郎君は再び「はいっ!」と元気に答えた。
その後、年配の僧はなにくれとなく私に質問を重ねてきたが、その内容は覚えていない。おそらく父親はどんな仕事をしているのかとか、学校は楽しいかとか、好きな科目はなにかとか、そのようなことだろう。
「さて、かずくん」と彼は言った。
「はいっ!」
「坐禅は、なんのためにするのかな?」
いきなりの質問だった。かずくんもおそらくびっくりしたのだろう。グッとつまったが、数秒を置いて言った。
「い……息をととのえるためにやります」
私はちょっと驚いた。「静かな心になるため」とか、そういう答えだろうと思っていたからだ。息をととのえるため?
私にはなんのことやらさっぱりわからなかった。
【 つづく 】