エドガー・アラン・ポー【アッシャー家の崩壊】(10)

【 翻訳比較 】

今回はポーの原作(翻訳文)の小説文体から話を始めたい。
「こういう文体、どう思います?」
「こういう世界、あなたはスッと入って行けます?」
……とあなたに伺いつつ話を進めるような気分で書こうと思う。

【 翻訳1 】
マデリン嬢を地下牢のなかに納めてから七日目か八日目の夜遅く床についたときのことであった。眠りは私の枕辺にもやって来なかった、……そして時は刻々に過ぎてゆく。私は全身を支配している神経過敏を理性で払いのけようと努めた。自分の感じていることのまあ全部ではないとしてもその大部分は、この部屋の陰気な家具……吹きつのってくる嵐の息吹に吹きあおられて、ときどき壁の上をゆらゆらと揺れ、寝台の飾りのあたりで不安そうにさらさらと音をたてている、黒ずんだぼろぼろの壁掛け……の人を迷わすような影響によるものだと無理に信じようとした。しかしその努力も無駄だった。抑えがたい戦慄がだんだん体じゅうにひろがり、とうとう心臓の上にまったくわけのわからない恐怖の夢魔が坐った。(翻訳・佐々木直次郎)

【 翻訳2 】
レイディ・マドリンを地下牢に安置してから七日目か八日目の夜遅くベッドに入ろうとしていたときだった。横になっていても眠気はやってこず……ただ時間がゆっくりと過ぎるのみだった。私は自分を支配している神経の昂りを理性の力で抑えようとしていた。今自分が感じていることは、すべてとは言わずともほとんど、この部屋の陰鬱な家具の辛気臭さのせいだと思い込もうとした。ぼろぼろの暗いカーテンは、迫りくる嵐の突風を受けて、発作的に壁のあちこちをもがくように動いたり、落ち着きなくベッドの装飾のあたりに触れたりしていた。だが、どう努めても無駄だった。抑えがたい震えが、次第に全身に浸透し、とうとう、わが心臓の上にまったく原因不明の恐慌の悪霊がどっかと腰を下ろしたのだ。(翻訳・河合祥一郎)

魔談でポーを語るにあたり「翻訳は(翻訳者により)どの程度異なってくるのか」という点にちょっと興味を持ったことがある。そこで手持ちのハードカバー(ポーの全集)だけでなく電子出版でも「黒猫」「モルグ街の殺人」「アッシャー家の崩壊」を買った。結果は御覧のとおりで、これはもう自分の好みで判断したらいいと思うのだが、妹の名前ひとつを例にあげても「マデリン嬢」と「レイディ・マドリン」。……全然違うんだな、と改めて思う。

さて御覧のようにポーの原作(翻訳文)は段落がなく、句読点(。)もなかなか出てこない長文が延々と続くシーンが多い。おそらく英文原作もそうなのだろう。手持ちのハードカバーでも、次のページを開いた途端に見開きがほとんど隙間なく全部文字でびっしりと埋まっていることがある。思わず「うわっ」とのけぞったような気分になる。

コアな小説フリークはむしろ逆かもしれない。「まあ、なんて文字がいっぱい!うれしい!」と喜ぶ人もいるかもしれない。……とはいえドン引きとは行かないまでも、多くの人は「見開きに隙間なく文字がぎっしり」なんてのを見たら気分的にちょっと引いてしまうのではないだろうか。私もそれに近い。「原作の英文もこんなふうにアルファベットがぎっしりと空白なく並んでいるのだろうな」などと想像しながら、丹念に、ある種の忍耐心や集中力も動員して原作の文字をひとつひとつじっくりと追いかけている。

そしてまたこうも思う。今の時代……50年や100年といった俯瞰で社会や風俗や生活を眺めた場合、今の時代というのはおそらく「スマホ全盛時代」ということになるのだろう。電車どころか寝る時でさえスマホを握ったまま寝ている10代20代が多いと聞いている。その結果、あまりにも短文主義・単純明快主義・文字より絵文字主義・リアルタイム情報主義・友人知人との連帯第一主義などなど、そういう方向にどんどん染まってしまう人々が急増している社会というのは、果たしてどこに向かおうとしているのだろうか。

ある種の忍耐心や集中力、こういうものを意識して使うためにポーの原作を読もうとしている私は、進化が袋小路に入ってしまった象のような人間かもしれないと思うことがある。限りなく絶滅危惧種に接近している人間のようにも感じる。それもまたよしとも思うのだが、あなたはどうだろうか。

【 轟音の恐怖 】

さて本題。冒頭で原作を出しておきながらいまさら「さて本題」でもないだろうと思うのだが、この原作部分で、語り手の恐怖は十分に伝わったのではないだろうか。外では嵐が吹き荒れ、古く奇怪な屋敷はそこらじゅうでギシギシときしんだ音を立てている。しかもなんの音かわからない奇妙な物音さえする。……と、そこへロデリックが現れる。

間もなく彼は静かに扉を叩き、ランプを手にして入ってきた。その顔はいつものとおり屍のように蒼ざめていた、……がそのうえに、眼には狂気じみた歓喜とでもいったようなものがあり……挙動全体には明らかに病的興奮を抑えているようなところがあった。その様子は私をぎょっとさせた、……が、とにかくどんなことでも、いままで長く辛抱してきた孤独よりはましなので、私は彼の来たことを救いとして歓び迎えさえした。
「で、君はあれを見なかったのだね?」しばらく無言のままあたりをじっと見まわしたのち、彼はふいにこう言い出した。「じゃあ、あれを見なかったんだね?……だが待ちたまえ!見せてあげよう」そう言って、注意深くランプに笠をかけてから、一つの窓のところに駆けより、それを嵐に向ってさっとあけはなった。猛り狂って吹きこむ烈風は、ほとんど私たちを床から吹き上げんばかりであった。(原作)

このシーンはじつに映像的だ。「(原作に極めて忠実な)映画であればこんなシーンだろうな」と想像できる。屋敷全体が大嵐に揺さぶられてギシギシと音を立てている状況。これは極めて不気味で、そこに閉じこめられた語り手の心は次第に恐怖でいっぱいになっていく。しかしその段階では屋敷自体が不気味であってもまだ「屋内にいる」という安心感がある。
ところがそこへ現れた屋敷の主人は「あれを見たか?」などとわけのわからないことを口走り、あろうことかこの嵐の中で窓を全開にしてしまうのだ。外の闇を荒れ狂っている嵐の轟音が一気に部屋に流れこんでくる恐怖。唯一自分をかろうじて守ってくれるものさえ無残にも引き剥がされたような恐怖が怒涛のように押し寄せたに違いない。

「あまりにも強い風の中にいると、人間の精神は次第におかしくなる」という話を聞いたことがある。その最も大きな要因は目で見る恐怖ではなく、耐え難くしかも絶え間ない轟音ではないだろうか。私はそう思うのだが、あなたはどう思います?

【 つづく 】


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