【 出国準備 】
ガイドブックは赤のサインペンで書きこみをしながら、結構真剣に読んだ。なにしろ日本を出国してしまったら、日本語で相談できる同行者がいない。なにもかも自分の判断で行動するしかない。
「なんのことはない。この旅もまたフリーランスじゃないか」と苦笑した。海外旅行といえばいかにも優雅だが、私の場合は、不安定な生活から逃れて海外まで行って、結局、さらに過酷なフリーの不安をわざわざ味わいに行くみたいな旅行だ。「唯一の味方がガイドブック」といった、ちょっと切迫した気分だった。
とはいえ所詮はガイドブックなので、物騒なことは書いてない。それでも注意せざるをえないアドバイスがいくつかあった。
「これは特に注意しないと」と思ったことは専用手帳に全部書き、その対応も書いた。
【 なるべく目立たない服装で 】
→モスグリーンのアーミーコートにした。フードがついてる。ポケットが多い。じつは私は車輪つきのスーツケースが嫌いで、あんなものをゴロゴロいわせて歩く姿を想像しただけで気分が滅入る。穂高登山用の70リットルザックで行くことにした。まさにバッグパッカースタイル。
【 パスポートは体から離さない 】
→アーミーコートの内ポケットに入れることにした。
【 カメラは胸から下げない 】
→スリが狙うらしい。あれこれ悩んだが「今回は撮影旅行ではない」と自分に言い聞かせて、愛用の一眼レフ(フィルムカメラ)は断念。オートマチックカメラにした。これならアーミーコートの胸ポケットに入る。
その他、「夜はひとりで歩くな」「夜は大通りから脇道に入るな」「地下鉄に乗る時は周囲に注意」「外のトイレは有料」などなど、細かいアドバイスがあった。ちょっとウンザリした。「どこが花の都だよ。単身旅行者にはやばいこと満載の街だな」と思った。10日後に成田空港に戻ってきた時にはガチガチの愛国者に変貌しているかもしれない。
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ふと気がついた。最初のハードルはフランスではなくベルギーだ。ブリュッセル空港で旅客機を乗り換えなくてはならない。
「ブリュッセル空港も調べておいた方がいい」と思った。ベルギーの空港なのでフランスのガイドブックに載ってるはずがない。やれやれ気分で図書館に行き、ベルギーのガイドブックを借りてきた。「ベルギーは世界一チョコレートがおいしい国」と書いてあった。「……そうか。じゃあ、ブリュッセル空港でチョコレートでも買うか」と思った。ほんの少し楽しい気分になった。
(実際は、チョコレートを物色する余裕など全くなかった)
【 ブリュッセル空港 】
離陸前に成田空港で換金しなければならない。
「まあどんな空港か、ぶらぶらと歩いてみるのも悪くない」と思った。11時離陸予定の3時間前に成田空港に行き、外貨両替専門店を探した。
当時のフランス通貨はユーロではない。フラン(フランスフラン)の時代である。現地でホテル代金を支払う必要はないので、なにに現金が必要か。交通費、食費、(本や雑貨を買った場合の)雑費、そしてチップだ。このチップという異国習慣がよくわからない。正直、面倒くさい。しかし現地では無視できない。なにしろ喫茶店に入った時も、外で公衆トイレを使った時も、(チップ用の)コインが必要な街なのだ。日本じゃ考えられない。
「成田空港 → ブリュッセル空港」で乗った飛行機は、KLMオランダ航空。フランスに行くために乗る飛行機がオランダの会社の飛行機で、しかも最初に降りるのがベルギーというわけだ。「なあにエールフランスに乗って13時間居眠りしていたら、シャルル・ド・ゴール空港に着く。簡単に行けるよ」と笑っていた友人の行き方とはずいぶん違う。これが「1週間20万円と10日間15万円の違いというわけか」と苦笑。

KLMオランダ航空は12時間でブリュッセル空港に着陸した。11時に離陸したので、日本では23時ということになる。日本とベルギーの時差は8時間。日本の23時から8時間をさかのぼって、ベルギーでは15時。
「こんなことをするから、体内時計ってヤツがおかしくなるんだよな」などと思いつつ、着陸した時点で腕時計の針を8時間、後退させた。
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ブリュッセル空港の天気は小雨だった。「やれやれやっと着陸したぞ。どうやら墜落はしなかったな」と喜んで飛行機の小窓から空港を眺めると、管制塔は霧に包まれていた。12月初頭のブリュッセルは、なにもかも青味を帯びた灰色に見えた。「冬のヨーロッパの憂愁」という言葉が頭をよぎった。
ガイドブックから受けた印象では、フランスのシャルル・ド・ゴール空港に比べて、ブリュッセル空港は「さほど大きくはない空港」というイメージだった。なので(決してなめていたわけではないが)「第1ハードル:飛行機乗り換え」は「まあなんとかクリアできるだろう」と思っていた。実際、空港のベルトコンベアで流れてきた私のザックはすぐにわかったし、次の航空会社「サベナ・ベルギー航空」のカウンターはすぐに見つかった。
(サベナ・ベルギー航空は2001年に倒産している)
次の離陸まで2時間。それまで待機するフロアもすぐにわかった。何度もチケットを見てサベナ・ベルギー航空の便にまちがいがないことも確かめ、ようやく安堵して「ではチョコレートを買いに行こう」という気分になった。
ところが……。
私がそのフロアを離れて売店に行こうとした時、そこにいた乗客たちはみな一斉に立ち上がった。
「えっ?」
わけが分からず見ていると、みなゾロゾロと歩き始めた。私以外に日本人はいない。なにが起こったのか全くわからない。聞く人もいない。一気に緊張感が高まった。
【 つづく 】

