【 8時の日の出 】
いつものように目が覚めたのだが、時刻が全くわからない。ベッド脇の傘つき電気スタンドをつけて、腕時計を見た。
7時半。しかし部屋は真っ暗だ。窓を少し開けて様子を見ると、外は深夜そのものだ。
「えっ?」と驚き、「……そうか、冬のパリは日の出が遅いとなにかに書いてあったな」と思い出した。パリは北緯48度。北海道よりも北極に近いのだ。
部屋には日本じゃちょっと見たことがないようなでかいオイルヒーターが窓の下にドンと設置されている。天井近くに四角いエアコンもあるのだが、「サーッ」という空気音が耳ざわりで、昨夜、部屋で飲んでいるときにスイッチを切ってしまった。その代わりにオイルヒーターのスイッチを入れたのだ。
これがまたじつに静かなのはいいが、スイッチは「ON/OFF」のみ。スイッチを入れてしばらくしても一向に部屋が暖かくならないので「なんだこれは。ちゃんと作動しているのか」と不審に思ったが、半時間ほどかけてようやくジワーッと熱を発するようになった。「なんとまあ悠長なヒーターだ」と呆れたが、とにかく静かでいい。結局、部屋にいる時は昼も夜も睡眠時もオイルヒーターをつけっぱなしで過ごした。慣れてしまうとこれはなかなか快適だった。
8時。ホテル前の道から往来のざわめきが聞こえてきた。なんと騒音に混じってかすかにバイオリンの音色も聞こえてきた。ストリートミュージシャンだろうか。窓を開けて探してみたのだが、わからなかった。ようやく太陽が顔を出し始めたらしい。今朝のパリは穏やかな曇天。空一面に隙間なく薄く広がった雲は、太陽が顔を出すあたりから天頂に向かって、同心円を描くように素晴らしいグラデーションに染まっていた。
「これがゴッホやモネが愛したパリの日の出か」と思うとなかなか感無量だった。
「早朝のパリをぶらぶらと歩いてみたい」と思った。そこでパリの地図をテーブルに広げた。
地図を眺めつつふと空腹を感じた。じつは昨夜、部屋で飲んでいる最中に「しまった。朝食を考えていなかったぞ」と気がついた。早朝の(といっても8時を回っていたが)カフェで軽い朝食をとるという手もある。しかしこの時間帯のカフェはきっと混んでいるに違いない。それに朝から「緊張MAXでカフェに入る」なんてのも、想像しただけで気が重い。
「まあいいや。歩きながら考えよう」と思った。
【 マレ地区 】
ここで私が滞在したホテルの位置をざっくりと説明しておきたい。
パリの中心部を地図で見ると、ほぼ真ん中に青い横筋が入っており、パリを南北に分けている。セーヌ川である。そのセーヌ川の中ほどに小さな中洲がふたつある。2匹の親子ナメクジが並んで泳いでいるような形をしている。左の親ナメクジはシテ島、右の子ナメクジはサン・ルイ島である。

左の親ナメクジは「パリ発祥の地」である。かの有名なノートルダム大聖堂やコンシェルジュリー(旧牢獄)など、いかにも偉そうなこれみよがしの巨大ゴチック建築物が威風堂々と並んでいる。右の子ナメクジには特筆すべき建築物はなく、閑静な高級住宅街といった風情だ。
その子ナメクジ(サン・ルイ島)からセーヌ川を隔てた北岸一帯をマレ地区という。ガイドブックによれば「古き良きパリの趣を漂わせた一角」とある。ちなみに「マレ」とは「沼」という意味。もともとは沼沢地だったのだ。アルセーヌ・ルパンの時代では人も立ち入らない寂しい一角だったのかもしれない。
私が滞在したホテルはこのマレ地区にあった。メトロ(地下鉄)のサンポール駅から徒歩10分ほどの位置にあり、交通の便はなかなかいい。そのサンポール駅の隣がバスチーユ駅。「バスチーユ」と聞けば「市民襲撃の巨大牢獄」と連想するのは私だけだろうか。1798年、体制のシンボルと見なされていたバスチーユ牢獄をパリ市民が襲撃。フランス革命の始まりである。現在では近代的なオペラ劇場がバスチーユ広場の一角にドーンと建っている。
ともあれバスチーユ駅は大きな駅で、メトロも3本が交差している。このバスチーユ広場まで歩いて往復することにした。
【 4つの数字 】
一階のフロントで鍵を預けようとした。すると御主人は軽く手を上げて、笑顔で「ノン」と言った。鍵は自分で持っていていいらしい。それは即座に理解したのだが、彼は手元のメモ用紙に4つの数字を書いて、私に渡した。いったいなんの数字なのかさっぱりわからない。さいわいというか彼は(私と同レベルの)英単語を並べることができた。英会話が堪能な人から見ればきっと爆笑ものの会話であったに違いないが、ともあれ私は20分ほどかけて、ようやく彼が伝えようとした4つの数字を理解した。
それはこういうことだった。
「プリーズ・カム・ヒア」と彼に誘われて、我々はホテルの外に出た。このホテルには、正面玄関脇に古めかしい大きな扉があった。なんというか開放的な雰囲気の扉ではない。まるで城塞の勝手口のようにいかめしい観音開きの黒い扉だ。その扉の脇に、鈍い銀色に光った小さなプレートがはめまれていた。よく見ると小さな丸いボタンが「3個・3列」配置で並んでいた。「1」から「9」まで数字がふってある。
この小さな数字ボタンを見たときに、ようやく「4つの数字」を理解した。メモを見ながら4つの数字を押した。するとガッシャンと金属質の重い音がした。扉の向こうの電動カンヌキが外れたのだ。扉を開けて中に入ると、左右を高い石壁に挟まれた狭い通路があり、その突き当たりが例の中庭だった。扉は閉まると同時に再びガッシャンと重い音が響いて自動カンヌキが作動した。たぶん夜遅くにホテルに戻ってきたときなど、ホテルの玄関は閉まっているのだろう。ここから勝手に入って中庭に行けということなのだろう。私は笑顔でうなずいた。
【 つづく 】

