悪魔談(3)

悪魔談3改2

女を美しくするのは神だが、女を魅惑的にするのは悪魔だ。
(ビクトル・ユーゴー)
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中学校2年生の当時、ぼくは「悪魔」という言葉は知っていたものの、そのイメージは「悪霊」や「妖怪」とさほど変わらなかった。ルシファンから得た知識により、「悪魔」という存在が「キリスト教」というフィールドから産み落とされた絶対的な「神の敵対者」だと知ったのだ。
「憐れむべき無知!」
それは耳元でささやくようにして告げられた罵倒だった。まだ頬のあたりに少女時代のあどけなさが残る娘の口から出る言葉は、極めて辛辣だった。14歳のぼくがいかにグサリと突き刺されたか、想像していただきたい。
そのことが契機となり、ぼくは悪魔に興味を持った。「キリスト教における悪魔とはなにか」と考えるようになった。彼女が喜んだことは言うまでもない。ぼくは冷笑罵倒という魔の手段によって、まんまとその術にはまってしまったのかもしれない。それから46年が経過して、いまこの瞬間、60歳で「魔談」連載を始めたぼくのダークサイド・ルーツは、まさにこの罵倒から始まっている。
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悪魔はタロットカードや様々な古書で、その姿が描かれている。しかし悪魔とはそもそも実態のない存在であって、具体的に描かれた姿はどれもこれも「仮の姿」にすぎない。
「……なので、私には私の悪魔像があるの」
悪魔に魅せられ、それを深く研究してきた成果というべきか、(当時のぼくにとってムカツクことに)彼女は作文も絵もぼくよりも数段上だった。どうやって手に入れたのか知らないが、黒い羽根(カラスの羽根?)のついたペンを見せてくれたことがある。その気持ち悪い羽根ペンと、ブルーブラックに自分の血を追加して調合したとかの気持ち悪いインクを使って古今東西の気に入った悪魔絵を模写し、自分なりにポーズやファッションやアイテムを変更して楽しんでいた。
お気に入りの画家としては、25歳で早世したビアズリーを崇敬していた。彼女が描く悪魔はまさにビアズリーを彷彿とさせる細密なペン画であり、細身でダンディーな紳士だった。アルセーヌ・リュピンのようにシルクハットをかぶっていた。「ルパン」ではなく「リュピン」だと主張していた。ルパンであろうとリュピンであろうとぼくにはどうでもよかったが、彼女との対話の中で次第にぼくが興味を集中させていったのは、「悪魔」と「霊」の違いだった。……というのも悪魔は彼女の話の中でしか登場しないが、霊は現実的に彼女の生活にしばしば登場した(登場しているらしい)からである。
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悪魔を信奉していたルシファンは、霊感の強い娘でもあった。「悪魔信奉」と「強い霊感」は、彼女の内部でどのような相互作用を及ぼしていたのだろう。「実態がない」という点では、悪魔も霊も全く同じだ。ただ悪魔はイコール邪悪な存在とされているが、霊はイコール邪悪ではない。また悪魔はキリスト教世界において存在するのだが、霊に宗教はない。
「なにもかも悪い人なんて、いないわけ」と彼女は言った。「……でも悪魔はなにもかも悪いの。存在自体が悪いの。それが魅力」
彼女の霊感はおそらく先天的なものだろう。つまり努力して得た能力ではない。しかし結果として彼女がもともと有していた霊感が、彼女が奉じていた悪魔信奉に、より複雑な影を落としていたのではないかと思う。ぼくにはその手の能力は皆無だった。なので幸いと言うべきか、彼女が見ていた霊を共有することは一度もなかった。しかし彼女の表情や仕草で、その存在を察知することは何度もあった。
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たとえばこんなシーンが思い出される。
彼女はぼくの肩ごしになにかを「見た」あるいは「感じた」のだろう。さっと表情がこわばった。ツルンとした白磁のような額は綺麗に並んだ前髪で程よく隠されていたが、その隙間から見える眉間のあいだにぐっと影が走り、ほんの一瞬、なにかを凝視した。次の瞬間にうつむくようにして視線を外した。この一連の仕草は、ひとつのパターンに近かった。
すぐ近くで彼女の様子をまじまじと見ていたぼくは即座に「なんか見たな」とわかったし、その方向も見当がついた。振り返って自分の背後を見たい衝動にかられた。彼女のその怯えた様子を間近で見ておれば、ただ振り返るだけで、ぼくにも「それ」がありありと見えるように思ったのだ。……が、やめておいた。振り返ったところで、ぼくにはなにも見えないし、なにも感じない。
これはむなしかった。「こんなことがあっていいのか」と悔しく思うようなことがたびたびあった。ある人間が普通に日常的に見ているものが、べつの人間には全く見えない。これはいったいどういうことなのか。
この謎をさらに追求していくと、「いま自分が普通に見ているものは、周囲の人間も本当に同じように見えているのか」という疑問に拡大する。ベッドに入ってからもそうした疑問をあれこれ考え始めると、言いようのない不安に襲われた。
しかしまた、こうも言える。現実的なビジュアルとして見ることができないからこそ、彼女が何気なく、当たり前のように話してくれた光景がその後、長らくぼくの記憶にとどまることになった。実際に見た光景よりも、自分の頭のなかで組み立てたビジュアルの方が、よりインパクトを保って永らく記憶にとどまるのかもしれない。
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ある初夏の夜、我々は月を見ながら線路ぎわを歩いていた。彼女は1軒の民家を指さして言った。
「いまね、あの屋根の下でね、誰かが怖い話をしてる」
特に立ち止まるというでもなく、歩きながらそう言った。「あのお家の窓はかわいいね」程度の軽い口調だった。ぼくはもちろんあっけにとられた。
「怖い話?……なんでそんなことがわかる?」
「だってほら」うっすらと笑っていた。「……屋根の上に5、6人、来てる」
ぼくはその屋根を凝視した。なにもない。
「なんで5人も6人も来る?」
「さあ。……たぶんそういう話をする人がいると、引きつけられるんじゃないの?」
なぜ初夏の夜に線路ぎわをふたりで歩いていたのか、その理由は次回、ゆるりと語りたい。ともかくこの一件で、ぼくがその時に抱いていたローティーン的淡くせつない願望は、三日月の中天にあっけなく消え去った。後には言いようのない恐怖だけが残った。悪魔の冷たい指が首筋に触れたような気分だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・(つづく)


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