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なんの小説で読んだのかもうすっかり忘れてしまったが、こんな会話があった。
「人はなぜ夜になると酒を飲むのか?」
しばらくして、別のだれかがボソッと言った。
「そりゃあんた、闇の恐怖から逃れるためさ」
シートン動物記、またはそのようなアーリータイムズ(古き良き時代)のアメリカ小説だったとかすかに記憶している。現代の都会生活においては、こんな洒落た返答はまず出てこない。酒はストレスからの解放であったり、同僚友人と騒ぐ遊興の手段であったり、女性を口説くテクニックなどなど……およそ「闇」や「恐怖」などという理由からはすっかり遠ざかってしまった。
しかしある種の人々はこうした時代においてもなお、闇と酒のせめぎあいを楽しもうとする。ぼくの知るかぎり、それは高山でテントを張る人々の中にときどきいる。かく言うぼくもまさにその一派である。夜になりテントの周囲がすっかり深い闇に支配された頃、あえて恐怖を味わうかのようにアーリータイムズを持っておずおずとテントの外に出る。カンテラの灯りに慣れた目では、外の闇は闇一色でしかない。しかしバーボンをキュッとひとくちやって胃の腑にしみわたらせ、恐怖心を徐々に緩和させ、何度かまばたきをしてゆっくりと目を開けると、闇の中にとけ込んでいた諸々の輪郭が次第に浮かび上がってくる。同時に一種異様な、原始的で野生的で性的な歓喜が、じわじわと胸の奥から呼び覚されるような気がするのだ。
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反応のない闇をしばらく黙って見つめた。
恐怖で奥歯がカタカタと鳴りそうだったが、上下の歯をしっかりと噛み合わせて沈黙した。全感覚を集中させることで、周囲の闇からなにか気配を察知しようとした。本音では、この時点においてもダザイかミシマの悪ふざけだろうと思っていた。切実にそうであってほしかった。「……おい、もう勘弁しろよ」というかすれた言葉が口の端から漏れそうだった。しかしなにかがそれを止めた。このような変事こそ出番と見て、心の闇からじわりと出てくるじつに不思議な感覚がある。そいつが冷静そのものの低い声でささやいた。
「……おい、これは悪ふざけなんかじゃないぜ」
目が次第に闇に慣れてきた。
半分ほど開けられた網戸の外は全くの闇だ。月明かりさえない。それでもかすかに輪郭が見えてきた。周囲をゆっくりと見回した時に、右手がなにか冷たいものに触れた。ザワッと一気に緊張のボルテージがマックスに跳ね上がったが、そろそろとつかんでみると、なんのことはないアーリータイムズだった。とはいえこんな時は馴染みの小ビンひとつをしっかりと握っただけで、この難局に武器を得たような気分になった。しかも中身は酒ときてる。まさに援軍。
心配しながら小さなフタを回してみると、ありがたいことにまだ少々残っている。ちょうどジガーぐらいの量だ。ジガーとは小さなウィスキーグラス1杯分ぐらいの量(45ml)である。一気に飲んだ。
酒飲みの特権は、いついかなる状況においても酒を口にふくめば率直に「うまい」と感じることである。情けない話だと自分でも思うのだが……ともあれこの時のぼくは、バーボン1ジガーの力で一気に元気になった。「矢でも鉄砲でも持って来い」気分で改めて周囲を見回した。かすかなイビキと寝息が聞こえ、それは明らかに違う方向から来ていた。ダザイとミシマが発している音にまちがいなかった。再び緊張が走った。ふたりとも太平楽に寝てやがる。
再び横になる勇気はなかった。ぼくは周囲に警戒しつつベッド上でじわじわと移動し、ベッド脇の壁に背中を押しつけた。上半身を起した状態でしばらく闇と恐怖を味わっていたが、そのうちに眠りに落ちた。明け方になってハッと目をさまし、「外が明るいのだからもういいだろう」といった気分で爆睡のふたりをたたき起した。
案の定というか、ふたりとも無罪だった。しかし話をしつつふたりの表情をそれとなく観察していたぼくは、あることに気がついた。ダザイはまったくの無罪でポカンとした表情だったが、ミシマはそうではなかった。下唇を少し噛み、どことなく緊張した面持ちだ。
「ははあ」と思った。「……こいつ、なにか隠してやがる」
そう確信した。
・・・・・・・・・・・・・・・・…( つづく )