【 脳科学魔談5 】左脳ダウン

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ジル・ボルティ・テイラーの話に戻る。脳卒中により彼女が体験した一連の特異な状況、これを仮に「左脳ダウン」と呼んで話を進めたい。

左脳ダウンはいわゆる「臨死体験」ではない。もちろん状況は極めて深刻であり、一人暮らしの彼女が外に電話することができず、床に倒れてしまったままの状況がそのまま続けば、あるいは死に至ったかもしれない。しかしこの状況は脳のトラブルであって、死ではない。にもかかわらず「脳卒中により左脳がダウンした」⇒「右脳は左脳の支配から開放された」⇒「これは涅槃だ!とジルが表現するほどに、恍惚の至福感が訪れた」という経緯、これが極めて臨死体験に近いという点がじつに興味深い。

じつはジルの著作「奇跡の脳」を手に入れて読もうとしたのも、彼女の談話をサイエンス雑誌で読んだときに「面白いな。これは知人の臨死体験と奇妙な共通点があるぞ」と思われたからなのだ。そこで今回はその臨死体験の話をしたい。

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筆者は穂高の山小屋で知り合った男から臨死体験の話を聞いたことがある。彼は冬の穂高で滑落したことがあった。空中に体が投げ出された瞬間、「ああもうダメだ」と悟った。ここで例の走馬灯が……と言いたいところだが、彼の場合はそうではなく、いきなり時間の流れが緩慢になったそうだ。面白い話である。まるで映画の感動シーンで効果的に使用されるスローモーション映像のような話だ。
しかしただ時間の流れがスローになっただけでなく、彼の場合は陶酔するような快感があったらしい。時間の感覚がそのような感じである以上、実際にはそれはどれぐらいの時間であったのか知るすべはないのだが、「……たぶん1秒とか、その程度」と彼は語った。次の瞬間、彼は樹木か潅木に激突し、ワンバウンドして地上に叩きつけられた。腰のあたりに激痛を感じ、そのまま気を失った。

彼は3人のパーティーでロッククライミングしていた。一番下の彼が落ちたので、上の2人は慌てて彼が落下したところまで降りて来た。肩を揺すられて声をかけられ、彼はうっすらと目を開いたのだが、「そうかまだだめなのか」とつぶやいたという。本人はその瞬間のつぶやきなど全く覚えていないらしいが、降りて来た2人はなんのことかさっぱりわからず、思わずお互いの顔を見たという。

一方彼はその瞬間に数人の人々と会っていた。いずれも知らない人々で、「彼に会いに来た」とか「彼を待っていた」とかそのような状況ではなく、「その数人はどこかへ行こうとしていたが、その傍らに彼がいるのを見つけて寄って来た」と、そのような状況であったらしい。
4人か5人ほどいたらしいが、はっきりとは思い出せないという。いずれも「観音様のように穏やかな笑顔」(彼の表現)であり、互いに会話はいっさいなく、みな彼を見て一様に微笑しているのだが、そのうちのひとり、年配の男性が彼の前にスーッと寄って来て、軽く首を横に振ったという。その仕草だけで(そこがまた不思議と言えば不思議なのだが)彼にはわかってしまったのだ。「そうかまだだめなのか。一緒に行けないのか」と察知し、軽い失望感を持ったという。

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この話を仮に「滑落臨死体験」としよう。これは筆者にとってなかなか印象的な話で、山小屋で聞いた直後も自分の手帳に詳細に記録しているのだが、時々なにかの拍子に思い出すことがある。ジルの左脳ダウンを知る以前から、筆者は「滑落臨死体験は左脳がマヒした状況かもしれない」となんとなく思っていた。もちろん筆者は脳科学者ではなく、ただの興味本位で右脳・左脳の役割分担を調べているにすぎない。なので深く追求することもなく、なんとなくそう推測していただけである。

つまり滑落した瞬間、左脳は「ああもうダメだ」と判断する。左脳は直線的・系統的に考える。 過去に様々な経験と知識を蓄積して来た左脳にとって、この瞬間の「ああもうダメだ」判断は、即座に「未来がない」という結論にいたる。そこで「はい。これにて一巻の終わり。私の仕事は終了」という感じでさっさとダウンする。

それに比べて右脳は脳天気である。右脳にとっては現在のみが全てだ。「あらまあ、空中に飛んでしまったわ」と映像的・運動感覚的に判断はするのだが、「まあ、それもこれも全ては宇宙のエネルギーに結びついていること。この個体がどうなろうと、宇宙全体では別にどうってことないのよ」と思う。
そう思いつつふと脇を見ると、普段から自我がどうの、知識がどうのとやたら小うるさい左脳がとっとと気絶している。「なんとまあ、この人はエラそうなくせに意外に小心者ね」てな感じで「ではこの機会に、私のオーラを存分にのばしましょうか」(このあたり、声優はぜひ美輪明宏にお願いしたい)と、こうなるのではないか。筆者はそんな風に想像している。

……………………………………【 つづく/次回最終回 】

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