【 魔の帰巣人形 】(3)

友人TTは数年に一度、2週間から4週間ほどの海外放浪撮影旅行に行く。そうした行動を彼は「BPC」と呼んでいる。「バックパックカメラマン」という意味だ。日本でも最近は海外からやって来たバックパッカーをよく見かけるようになった。「70リットルザックだな」と思うような縦長の大きなザックを背負って歩いている外国人男女を普通に見かけるようになった。

TTの場合は、重いザックを背負うだけではない。まるでライフルをひっさげた重装備兵士のように、ジッツオを両手で持って歩く。彼は「三脚」と言わない。ニックネームのように敬意をこめて「ジッツオ」と呼ぶ。ジッツオはフランスの撮影機材メーカーである。特に三脚についてはプロカメラマンの間で定評が高い。

私も山岳が好きで、テントを背負って穂高に登ったことが何度かある。しかし50を越えてからは、さすがに腰が痛くなった。ザックの重量を減らすことにあれこれ腐心するようになり、一番最後に三脚を持っていくかどうかで真剣に悩んだあげく、断念することが多くなった。
ところがTTの撮影談を聞いていると「岩の割れ目に気がつかず落ちそうになった。ジッツオが引っかかって助かった」とか「強風にあおられた。ジッツオの足にロープを巻いてペグを打った」などなど、カメラやレンズやシャッタースピードや露出の話題に負けないほどに、ジッツオの名がしばしば出てくる。よほどその三脚を愛用しているのだろう。……ちなみにペグとは、テントを固定するために地面に打ち付けるクイのことである。スチール製が理想的だが、なにしろ重い。なのでプラスチック製のものもある。

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カラパティア山脈。ルーマニア国土のざっと三分の一を占めると言われている。
その山間を思いのままに放浪し撮影に明け暮れていたTTは、山村でひなびたパン屋を見つけた。文字の判読が難しいほど色あせた木の看板が壁に打ちつけてあり、文字列の中にかろうじて「Covrigi」(コブリッジ)と読める文字があった。これはルーマニアではお決まりの、プレッツェルと似た形状の硬いパンだということを彼は現地で覚えたばかりだった。
「なんとこんなところに」と喜び、これで数日はコブリッジをザックに詰めて山に入ることができると考えた。

彼の目指す撮影アングルは、小高い丘の上から山村を一望する光景だった。そのあたりをあちこち歩き回り、空港で買った地図と愛用のコンパスを使って、太陽が沈む位置を予想した。夕暮れ時の空の変化を観察しつつ、じっくりと狙うつもりだった。
「カラパティア山脈の残照ときたら……」と彼は語ったことがある。「その時刻、峰々の輝きときたら……」と続き、その後しばらく沈黙した。あまりの美しさに言葉も見つからないのだろう。

TTはパン屋に入る前に、まずそのたたずまいを観察した。それは彼の癖だった。撮影してから入るか、入ってから撮影するか。その家をぐるっと一周するようにして眺めた。ちょっと驚いたのは、近くに電信柱らしきものが一本もないということだった。電気を使わない生活でパンを焼いているのだろうか。あるいは美観のために電線を地中に埋めているのだろうか。とはいえ、美観がどうこうと問題になるような場所でないことは確かだった。

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果たしてドアを開けると店内に照明は一切なく、薄暗い部屋の奥から老人がゴソッと出てきた。パンを買おうにも、壁の棚には商品らしきパンが一個も見当たらない。「さては廃業したか」とがっかりしつつ「英語はわかるか?」と尋ねてみると、軽くうなずいて、なにか言葉をボソッとつぶやいた。少しはわかるのだろう。「パンを買いたい」と言うと、黙って奥にひっこんだ。

「やれやれ」といった面持ちで、薄暗い店内を見回した。奥にひっこんだからには、なにかパンがあるのだろう。まあどんなパンであれ、ないよりはマシというものだ。
そんなことをあれこれと考えていると、ふと奥の椅子に目が止まった。なにしろ薄暗くてよくわからないのだが、赤ん坊ほどの大きな人形が椅子に座っていた。
彼の興味はその人形に集中した。他に見るべきものがなにもない店内とはいえ、その人形にはなにか興味を引くものがあった。

……………………………………   【 つづく 】

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