【 魔の湖底 】(2)

ガランとした食堂の端で、賑やかな大学生の団体さんの脇でひとりで夕食、という状況はやはり「酒を飲もうか」という気分からは程遠いように思われた。ヘタをしたら団体さんから「おひとりですか?……こっちに来て一緒に食事しませんか?」なんてお誘いを受ける最悪の事態ともなりかねない。しかも斜め前には地図やら本やらを広げ、「オレは研究中だ。寄るなさわるな」みたいな雰囲気の男が黙々と食事している。どうも居場所がないというか、視線のやり場に困るような食事だ。
「酒ナシですませるか」とか「後で部屋に戻ってからゆっくりと飲むか」とかあれこれ考えたのだが、食べ始めたらやはり飲みたくなった。食堂の端に自販機が2台並んでおり、その1台には缶ビールが並んでいた。私は自販機の前に行った。キリンではないのが残念だったが、贅沢は言えない。スーパードライの500ccを買って席に戻った。ちょっと迷ったがやはりコップで飲みたいと思い、カウンターに行ってガラスのコップをもらってきた。

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席に戻って飲み始めたら、意外にも男の方から声をかけてきた。
「あんた、画学生か?」
ずいぶん古い呼称だなぁと苦笑気分だったが、まちがっているわけではない。
「そうです」
返事しつつ改めて男の表情を見ると、目が少し血走っており、頬がかすかに赤い。
「おや?」と思ったが即座に「……あ、酔ってるのか」と理解した。

彼は食事の盆の脇に黒い革風の手提げバッグを無造作に置いていたが、開かれたままのファスナーの口からダルマの赤いキャップが見えた。ダルマとはサントリーウィスキー・オールドの愛称である。机上に置かれた右手にはガラスのおちょこがある。まったく装飾のないただの肉厚の円筒形だが、これでオールドをグイッとやるのが好きなのだろう。
「おちょこでオールドか。初めて見たな」と思っていると、再び彼の声がした。
「琵琶湖を描きにきたのか?」
彼の視線は私の胸ポケットから先端を覗かせている色鉛筆に向けられていた。その時の私は首から下げているスケッチブックを背中に回して食事していた。
「そうです。以前からやりたいと思い、やっとかないました」

彼はおちょこを差し出した。我々はオールドのおちょことスーパードライのコップで、カツンと音をたてて乾杯した。その後、彼は「どこから来た?」と聞いてきたので、私は京都の実家からバイクで来たこと、大学は東京にあることなどを話した。
「京都か」と彼はつぶやくように言い、「京都のやつらは偉そうなコトを言ってるが、ウミの水を止めたら、やつらは全滅だ」と言って笑った。私の方からは特に聞かなかったが、「このあたりの人のようだな」と見当をつけた。このあたりに住む人は、世代にもよるのだろうが、琵琶湖のことを親しみをこめて「ウミ」と呼ぶらしい。そう聞いたことがある。

実際のところは「琵琶湖から流れ出る水をせき止めることなどできない」という話を聞いたこともある。そんなことをしたら京都が騒ぐ以前に琵琶湖の水位がどんどん上昇し、琵琶湖周囲の街の方が、エライ目に合うことになるのだそうだ。その時もその程度の知識はあったのだが、私は笑って彼の説に同意した。こんなところで異論を唱える気はなかったし、それ以前に「この人の酒はクダを巻いたりしないだろうな」といった警戒心の方が強かった。
「そうです。そのとおり」と同意して話を合わせている方が平和というものである。

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あれこれと雑談を重ねているうちに、彼は私が大学生と知って専攻を聞いてきた。
「まだまだこれからの人生だな」とつぶやくように言い、「かわいそうに大学生でウミに吸い込まれたヤツらがいる。浮かばれない……どころか、ひとりも浮かび上がってこない」と言ってニヤニヤと笑った。不可解な笑いだった。しかし「そろそろ逃げ口上を考えた方がいいかな」と思案し始めていた私の興味がグイッとUターンした。
「なにか事故でも?」
「ああ、ウミで最大の遭難事故だな。知ってるか?」
「いえ、知りません」
「聞きたいか?」
「もちろんです」と私は言った。

……………………………………    【 つづく 】

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