【 魔の湖底 】(3)

人と会話しているとき、相手が笑顔であれば、大抵の人はほっとする。安堵して話をすることができる。しかし例外もある。相手が笑顔や微笑をこちらに向けていても心がざわざわと騒ぎ、警戒心を解くことができない。そういう人がいる。映画で言えば(……ホラー映画が嫌いで観ない人にはたとえにもならず申しわけないが)、あのハンニバル博士の微笑がまさにそうだ。なんとも不気味な、相手の心の動きを見透かした上で、その心にグサリと突き刺さるジョークを考えているような、そんな微笑をする。

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その男は「ウミで最大の遭難事故」を語ろうとするつもりのようだったが、なぜ大学生の私にそれを語る気になったのか、その理由はわからなかった。話し相手がほしいようには見えず、ヒマを持て余しているようにも見えなかった。それどころか最初にチラッと私を一瞥したときの視線はかなりけわしく人を寄せつけないような気配があり、机上に広げた地図やら本やらは彼の「仕事中」を示していた。なるべく離れて着席したいような男だった。

にも関わらず、最初に声をかけてきたのは彼だった。我々は雑談を始めた。会話しつつ彼の様子をそれとなく観察し「なるほどホロ酔いか」と察知した。また左目の輝きや動きにどことなく違和感があることにも気がついた。右目に比べてややまぶたが重く下がっている左目はどこを見ているのかわからず、瞳は全く動かなかった。「義眼かもしれない」と思ったのだが、もちろんそんなことを聞こうとは思わなかった。そんなことよりも気になったのは、この男の薄ら笑いだった。いかなる理由がこの男の笑いを誘うのだろうか。あるいは理由などないのかもしれない。そんなことを思いつつ男の話に耳を傾けた。

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「ここに島がある。知ってるか?」
男は自分の前に広げていた地図を押し出すようにして、私の方にずらした。私はグラスを脇に置き、身を乗り出すようにして地図を見た。琵琶湖を反対側から見ているわけだが、形状はよく知っている。しかし南北を逆にして琵琶湖を眺めたことはなかった。「妙なものだな」と思った。頭を下にして水底に沈んでゆくタツノオトシゴのように見える。男が指差した島は、沈降タツノオトシゴの目のように見える。その島はもちろん知っていた。

「竹生島(ちくぶしま)ですね」
「ああ。このあたりはな……」男は島の南にあたる湖面を指でさすった。「やばいところだ」
「やばい?……どうやばいのです?」

彼はそれに答えなかった。指先をそのままスッと横にすべらせて、岸にぶつかったところで止めた。琵琶湖の西岸を走る湖西(こせい)線があり、「近江高島」駅があった。
「ここは行ったか?」
「いえ、まだです。……そのあたりは明日、通過する予定です」
「ああそうか。……ここにな、高さ3メートルほどの石碑がある」

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私は背中に回していたスケッチブックを前に回し、首から外して机上に置いた。胸ポケットから黒の色鉛筆を取り出して、「近江高島、石碑」とメモした。彼はその様子を見ていて感心したらしい。
「スケッチブックはどこから出て来た?」
「いつもヒモをつけて首から下げてます。いまは食事なんで、背中に回してました」
「なるほど。すばやく出て来るわけだ」

「その石碑で遭難事故のことがわかるのですか?」
「まあそうだ。慰霊碑だからな。……しかしわかるのは、いつ、どんな事故が起こったとか、そういう事実だけだ」
「実際はどんな事故だったかわからないと?」
「そりゃわからんさ。事故は誰も見てないところで起こったからな」

男は淡々と説明した。昭和16年4月6日。金沢第四高等学校(いまの金沢大学)の8人と京大生の3人、合計11人の漕艇部員が朝の7時にボートをこぎ出した。しかしそのまま行方不明となった。翌朝より大がかりな捜索が行われた。網にひっかかって引き揚げられたのは、オールや下駄だけだった。11人の生存は絶望視された。

「湖上には、なにも浮いてなかったということですか?」
「そのとおり」

……………………………………    【 つづく 】

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