【 台湾魔談 】(6)

【 プワゾン 】

あなたは匂いに敏感な人だろうか。それとも普通だろうか。
まあ「普通」という言葉を持ち出しつつ、なにが普通でなにが普通でないか、これほどあてにならない尺度はない。友人であまりにも嗅覚が鋭敏であるがゆえに(彼に言わせれば自分が普通で、周囲の人間が嗅覚退化の一段劣った人間ということらしいのだが)、外を歩くだけでも常人には想像もできない様々な苦労をなめてきた人がいる。今の時代のマスク生活は、彼にとってはむしろ歓迎と言ってもいい状況らしい。

しかし最近は、コロナと並び彼にとって日常的な脅威がある。芳香剤と柔軟剤。この耐え難い悪臭(彼の表現)はおそるべきしつこさで衣服に付着し、周囲に有害な匂いを撒き散らし、人類の肺にも(煙草の煙害のように)次々に付着しているという。彼の説によれば、それは急速に確実に都会人の肺を侵しつつあるという。じつに恐るべき話だが、世の中にはそうした理由で人類存亡を真剣に心配している人もいる。

さて台北駅。
自強号に乗ったものの、どれが自由席車両なのかよくわからない。仕方なく「たぶん混みあってる車両がそうだろう」と考えつつ最後尾の車両に入り、前へ前へと車内を移動した。
車内に入った時から「妙な匂いのする車内だな」とは感じていた。匂いの表現ほど難しいものはない。「たぶん香水だな。それにしても妙な匂いだな。複数の香水がブレンドされたか」などと考えつつ車内を進んだ。なにしろシャンツァイの香りがお好きな民族である。セブンイレブンに入っただけで、「おでん」にシャンツァイが混ざった匂いがツンと鼻の奥を刺激するような国である。まさか香水にもシャンツァイを使っているとは思えないが、日本人の「まさか」など、どこ吹く風の国だ。

混雑したひとつの車両をなんとか通過し、ドアの窓ごしに次の車両の混み具合を見つつ「行ってみるか、あきらめてこの車両にとどまるか」と判断しかねている時だった。いきなり目の前のドアが勢いよくバンッと開き、すごい形相の男が飛び出してきた。こちらはその形相を見て驚き、一瞬、車内を逃走中のスリか強盗のように思われて身構えたほどだった。すると私のすぐ背後にいた御婦人が大声を発し、なんと男の顔の真ん中を指差して非難し始めた。

男にも驚いたが、そのオバサマの迫力は凄かった。男はたちまちひるみ、しかししきりに何かを訴えている様子で、自分の鼻を指でつまんで舌を出し、目を白黒させるような仕草をした。その様子がじつに滑稽だったので、私は思わず声を出して笑った。男はそのまま脇のドアから外に出た。いったん外に出て、別の車両に逃げて行くつもりなのだろう。

次の車両では、男には耐えがたい異臭があるのかもしれない。次の車両に行くのはやめにした。その位置で立ったまま発車を待っていると、またドアが開き、数人の男たちが険悪そのものの表情でこっちの車両に移動してきた。彼らが動いた風で問題の匂いが(たぶんそれだろうと推測したのだが)ふわりと流れてきた。

「あっ、これは知ってるぞ」という香水の匂いだった。プワゾン。ディオールが出した「毒」という名の香水である。誰に教えてもらったのか忘れてしまったが、確かにその名にふさわしい、独特の、西欧的な、どこか挑発的なキツイ香りだ。台湾男性にとっては西欧も挑発もなく、とにかく耐え難い最悪の香りなのかもしれない。

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【 急停止 】

発車した自強号が50分ほど走った時だった。突然に停止した。
急停止というほどでもないが、背骨にギリギリとくるような金属音を2秒間ほど響かせたあげくのガッタンといった停止。なにかトラブルが発生したのはまちがいない。やれやれという暗澹たる気分。

しばらくして車掌がやってきた。大声でなにかを説明し、車内はたちまち騒然となった。私にはなにが起こったのかさっぱりわからない。乗客の様子を観察していると、驚いたことにドヤドヤと立ちあがり、網棚から荷物を下ろし始めた。ドアが手動で開き、並んで降り始めた。

理由が理解できない状況には不安だったが、乗客たちの態度には感心した。彼らはじつに辛抱強く従順だった。車掌に詰め寄ったり文句を言ったりする乗客はひとりもいなかった。とはいえ、異国でのこうしたトラブルは本当にまいる。目の前の婦人が背負っている赤ちゃんのつぶらな瞳がまじまじとこちらを見つめているのに気がついて苦笑した。目下の状況がまったく理解できていないのは、この赤ちゃんと私ぐらいだろう。

とりあえず降りた。電車の前方を見て「ははあ」と悟った。トンネルがあった。トンネルでなにかトラブルが発生したのかもしれない。ひょっとしたら落盤かもしれない。電車に乗ったまま落盤トンネルに突っこむぐらいなら、歩いた方がマシというものだ。やれやれ危ないところだった。自分にそう言い聞かせて歩くことにする。

乗客たちはぞろぞろと線路の上を歩いていく。トンネルは迂回するのだろうか。次の駅まで歩くのだろうか。山中であり、人家は見えず、夕陽は沈もうとしている。
「えらいことになった」と唇を噛む思いだ。しかしまた一方では「これは一生の語り草になるぞ」といった高揚感もあった。とにかく暑い。狭い車内でじっと我慢しているよりも、なにはともあれ外の方がいい。風が気持ちいい。

ふと「水は大丈夫か」と不安になった。ザックをおろして手を突っこんだ。水筒に1/3ほど。今夜は線路の上で一夜を過ごすハメになるのかもしれない。節約気分で飲むのをやめた。

……………………………………    【 つづく 】

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